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わたしと一緒にいたのだから【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書15:18〜27、ヨハネによる福音書17:20〜26

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 4月24日は、華陽教会の創立記念日です。先週の水曜日に、133周年を迎えました。そして今日、創立記念礼拝のあと、2024年度の定期教会総会が開かれます。この総会で「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章24節を今年の年間聖句にしようと提案します。

 昨年度2月4日の礼拝後に、私たちは教会懇談会を開きました。コロナ禍で、なかなかみんなと集まって話すことのできなかった課題や要望、気になっていることなどを、ざっくばらんに話し合いました。そのとき「こんなに素敵な教会なのに、タクシーの運転手にも、道行く人にも、みんなに知られていないのは寂しい」という意見が出てきました。

 そして、もっと気軽に華陽教会へ入ってもらって、この教会を知ってもらって、ここにキリストの体である教会があることを伝えていきたい……という願いが語られ、オルガンのミニコンサートを企画することになりました。他にも、夜間の聖書研究や、教会学校のデイキャンプなど、積極的な要望や意見が集まりました。

 たぶん、華陽教会へ私が来てから、こんなに「こういうことがしてみたい」「ああいうことができないか」と信徒や会衆の方から意見が集まったのは、初めてだと思います。牧師の方からではなく、皆さんの方から、新しく地域の人を招くため、御言葉に触れる機会を作るため、具体的な提案があったのは、驚きと感動で胸がいっぱいになることでした。

 一方で、皆さんの中には、今も、どうやって福音を伝えればいいか? どうやって良い知らせを、神様の愛を伝えればいいか? 分からなくて、もどかしい人もいると思います。自分の信じている神様を、家族へ上手く伝えられない。聖書の教えを、友達や知り合いに共有できない。「礼拝へ行こう」「教会へ行こう」と、誘う言葉が見つからない。

 だって、おそらく警戒される……信仰を強制する気はないのに、一回話題にするだけでも、信じているものを、押し付けようとしているように思われるかもしれない。以前、誘い方に失敗して、二度と、話題にできなくなった人もいるでしょう。神様の話もできないし、礼拝に誘うこともできないし、自分には、誰かを伝道する手立てがない。

 イエス様は、私たちが神様の教えと業を語るとき、どのように話せばいいかを示してくれる「真理の霊」を送ってくださると言いました。誰かが、私たちの信仰を否定してきたら、どのように答えればいいかを示してくれる「弁護者」を送ってくださるとも言いました。それは、神のもとから、一人一人に送られる聖霊のことでした。

 けれども、誰かを教会へ誘いたくても、信仰を共有したくても、私たちの口から、良い感じの言葉が、良い感じに出てくるわけじゃありません。むしろ、何も言葉が出てこない。どう伝えたらいいか分からない。あるいは、信仰を押し付けるような、良くない言葉が出てきたり、かえって反感をもたれるような、間違った言い方になってしまう。

 そんな経験をしてしまった、あるいは、そうなることを恐れている私たちが、イエス様について証しをする、伝道するということは、とても難しく感じます。ほとんどできないように思えます。実際、「私は誰かに伝道することができないので、信徒でいられません」と相談してくる方が、年に数名おられます。

 キリスト教について、誰かへ語ることも、礼拝へ誘うことも、ずっとできずにいた自分は、これからも、伝道なんてできません……と。これって、本当によく言われることなんです。教会の内外問わず、牧師をしていると、あちこちから言われるんです。「先生、私はキリスト教を伝道することが、神様を証しすることが、できません」と。

 けれども、イエス様が送ってくださる「真理の霊」は、神のもとから遣わされる「弁護者」は、神様のことを、イエス様のことを、直接教える言葉だけを、語らせるわけじゃないんです。ここへ初めて来た方が言いました。会堂へ入って、会衆の一人に、挨拶されたのが嬉しかったと……なぜか、感動を覚えたと。

 何も、特別なことは言っていません。挨拶をした方は、たぶん、自分が伝道したつもりも、神様を証ししたつもりもありません。きっと、聖霊に何かを語らされたとは、自分が何か伝えられたとは、全く思っていないでしょう。でも、確かにその時、イエス様に触れた人が居たんです。なぜだか分からないけど、喜びを受け取った人が居たんです。

 「私も洗礼を受けたいです」……教会へ通うようになった方から、そう思うようになった理由について聞かされるのは、イエス様について、神様について直接教えられた「あの言葉」ではありません。みんなの優しさです。ここにいる人の優しさから、イエス様と出会って、洗礼を受けたいと願うようになった人がいます。

 おそらく、一緒に食事をしたり、讃美歌を見せたり、会話を交わした皆さんの中に、自分が「伝道した」「キリストを証しした」という自覚のある人はいないでしょう。何気なく声をかけたとき、自分が何かを伝えられた、聖霊によって語らされた、と思った人はいないでしょう。でも、確かにそのとき、イエス様と出会った人がいるんです。

 まだ、聖書のお話も、神様の教えも、知らないことが多い中、「洗礼を受けたい」と思えるような、出会いをした人がいるんです。その出会いに用いられたのは皆さんです。聖霊が語らせる言葉、キリストを証しする言葉、信仰を弁護する言葉は、なにも、格調高い、斬新な言葉ばかりじゃないんです。

 特別には思えない、気の利いた言葉には感じない、何なら、話したことさえ忘れているような、あなたからこぼれていく言葉が、聖霊によって語らされた「証し」として、働くこともあるんです。イエス様は言いました。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」

 そう、あなたは証しをするんです。「証し」と思っていないかもしれませんが、あなたの生き方が、あなたの在り方が、キリストを証しています。直接教会へ誘えなくても、直接神様の話ができなくても、あなたはキリストとつながっており、その生き方全体で、神様を現す者にされています。

 どうか、安心してください。イエス様は、私たちのためにこう祈りました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」あなたは既に、イエス様のもので、イエス様と共に、栄光を受けます。

 あなたがここにいるように、自分と一緒にいるように、イエス様自身が望んでいます。この方が、あなたと一緒にいる以上、あなたがたは、証しのできない者ではありません。既に、牧師を驚かせました。初めて来た人に、一緒にいる人に、皆さんの出会いが、イエス様との出会いをもたらしました。皆さんは、証しの言葉を持っています。

 さあ、ここをみんなに知らせましょう。共に栄光を受けましょう。あなたがここにいることで、この教会はキリストの体として立てられます。あなたがここにいることで、キリストがここにいることを証しします。あなたは証しの業から離れておらず、共にキリストと歩んでいます。

 聞きなさい。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」そう、見えなくなったキリストは、初めからあなたと共にいて、今も、あなたを送り出します。ここに招き、ここに居て、ここから送り出されます。あなたと出会う人たちに、今も、これからも、キリストの出会いが導かれますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。