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他の誰にも救えない?【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 申命記8:11〜20、使徒言行録4:5〜12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

実を言うと、今歌った『讃美歌21』の527番は、私が苦手な賛美歌です。「苦手なのにどうして選んだのか?」と不思議に思われるでしょうが、今日、この聖書箇所について話すなら、今こそ私は、この賛美歌とも向き合わなければならない……と思わされているからです。

なぜ、この賛美歌に苦手意識を持っているか? それは、最初に繰り返される、歌詞の言葉が原因です。「み神のみわざは、すべて正しい」……1番から4番まで、この歌詞が繰り返されています。皆さんは、歌えたでしょうか?……特に疑問なく、素直に歌えた方もいるでしょう。しかし中には、私のように、ちょっと歌い辛かった方もいると思います。

なぜか? それは、聖書に記された、神様の為さったこと、神様が行われたことについて、「全て正しい」と言い切ることに、ためらいを覚えてしまうからです。実際、聖書を読んでいると、神様の命じたこと、為さったことは本当に正しかったのか、疑問を持たずにはいられない話が多々出てきます。

たとえば、アブラハムに、自らの子どもを「焼き尽くす献げ物」として献げるよう命じた話。エジプト人の長子、最初に生まれた子どもたちを、皆殺しにしてしまった話。障害者や病人に、神様へ献げ物をする儀式に参加しないよう命じた話。どんなに辛いことがあっても、信仰を捨てないか試すために、ヨブの子どもたちを奪った話。

ついさっき、使徒言行録の前に読んだ、申命記の言葉にも「すべて正しい」と言いづらい、神の言葉が出てきました。他の宗教を信じたら、その人たちは皆、滅ぼされるという話……「主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る」

3日前、私は教団のカルト問題全国連絡会へ行っていました。多くのカルト団体は、自分たちの語る教えを信じない者は、地獄に落ちると脅したり、メンバー以外の人間は、救われないと語ったり、不安と恐怖を煽って信者を集め、被害者をコントロールしています。

そういった集団と、私たちキリスト教会は違うんだ……と言いたいですが、このような聖書箇所にぶち当たると、途端にどう言えばいいか分からなくなります。聖書に書いてあることを、そのまま信じるのであれば、神様が命じ、行ったという記述を、そのまま受け入れるのなら、私たちはカルトと何が違うんだろう?

「み神のみわざは、すべて正しい」……改めて、この歌詞をどんな思いで口にするのか問われます。正しいと思うこともたくさんあります。読んでいて、慰められ、励まされるエピソードもたくさんあります。しかし、そうでない言葉やエピソードも出てきます。受け入れ難い、正しいと思えない言葉や出来事がぶつかってきます。

同時に、聖霊を受けたイエス様の弟子たちが、神の子イエス・キリストについて語った言葉をどう伝えるかも問われます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」……他の誰によっても救われない。他の宗教によっても、哲学によっても、科学によっても!

もしこれをストレートに、他の宗教の人へ語ったら、失礼で、暴力的な態度に映るでしょう。異なる信仰を否定する、他の立場を認めない、排他的な姿勢に見えるでしょう。イエス様の弟子たちは、これをエルサレムの神殿で、ユダヤ教の人々の前で、思いっきり大胆に宣言しました。

神が死者の中から復活させたイエス・キリスト……ほかのだれによっても、救いは得られません!……神様を信じて、イエス様の言葉と出会って、私は何度も助けられてきました。他の何によっても、自分は救われなかったという確信も実感も持っています。でも、始めて教会に来た人へ、自分が外で出会った人へ、このように言う気にはなれません。

私はイエス様に救われた。あなたもイエス様に救われる……確かに、そう信じている。でも、あなたに「ほかのだれによっても、救いは得られません」と、面と向かって口にするのは難しい……あなたは私を排他的な信仰者だと思うかもしれない。あなたは私に自分の立場を傷つけられたと思うかもしれない。あなたは私を怖がるかもしれない。

事実、私は他の宗教の信仰者から、その人の信じる宗教以外に救いはないとメッセージをもらいます。他の宗教はみんなカルトだと言われます。お前の伝えているものは本当の救いをもたらさないと責められます。私は相手のことが怖くなり、嫌になり、その宗教の印象は最悪になります。

牧師がSNSをやっていると、そういうメッセージは一件、二件じゃないんです。お前の信じているものは、お前の伝えているものは、みんなに救いをもたらさない。本当の救いをもたらすのは、我々の信じるものだけだ……こう言われたって、私は傷つくだけで、腹が立つだけで、その人の信仰を受け入れて救われることはありません。

むしろ、自分の大事にしてきた信仰を、生きる土台にしてきたものを、粗末に、乱暴に扱われ、隅に捨てられた気分になります。無意味で、無益な信仰として、死んでしまった教えとして、投げ捨てられた気分になります。しかし、よく見るとそれは、病人を癒したのに捕まえられ、議会で取り調べを受けたイエス様の弟子たちと同じ状況でもあります。

「ほかのだれによっても、救いは得られません」……ペトロとヨハネがそう語ったのは神殿の前で足の不自由な男を癒し、驚いた人々にイエス様の言葉を伝え、何がこの人を救ったのか教えているときでした。2人は、イエス様を妬んで十字架につけた、祭司やサドカイ派の人々に引いていかれ、無理やり裁判にかけられます。

何の権威で、足の不自由な男を癒したのか? 誰の名によって、人々に教えを語ったのか? 祭司やサドカイ派の人々は、苛立ちながら問い詰めます。彼らは「イエス・キリストは神の子でも、救い主でもない」「あの男は神を冒涜して処刑された」「その名によって救いがもたらされることはない」と反対し、弟子たちの言うことを否定しようとしました。

ペトロが、イエス・キリストの名を出して「ほかのだれによっても、救いは得られません」と語ったのは、まさにこの時です。あなたが否定している、私の信じる方は、十字架につけられて殺されましたが、神様が死者の中から復活させられ、今も、私たちに聖霊を送ってくださいます。

あなたが、無意味で無益なものとして、乱暴に捨てようとした方は、隅の親石となって私の生きる土台となり、今も私を立たせています。この方が私を救い、私と出会ったあの人を救い、これからも、みんなを救っていきます。たとえ、あなたに十字架につけられ、隅に捨てられ、救い主じゃないと言われたところで、この方は必ず救いを実現します。

自分が捕まったとき、見捨てて逃げた私のもとにも、復活して会いに来てくれたように……裏切った私のことを赦し、新たに弟子としてくださったように……イエス・キリストの名を否定した、投げ捨てた、信じなかった全ての者を、この方は、救いにくるんです。あの日、イエス様を3度否定し、見捨てて逃げた私自身が、その名によって生かされている、今この時がその証です。

弟子たちが、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と言ったのは、自分の信仰の正しさを訴えるためではありません。むしろ、自分も否定し、捨ててしまった方に助けられ、立ち上がらされ、救われてきたことを、身をもって証しするためです。イエス・キリストの名を否定する者へ、自分も否定していたけれど救われたことを告げるためです。

思い返せば、申命記の言葉も、背く者への裁きの予告だけで終わりませんでした。神様はその後、自分の言うことを聞かない者、信じない者、従わない者に、裁きが下ることを告げながら、滅ぼし尽くされることがないように、絶えず呼びかけ続けました。聞く耳のない者が、聞くようになるまで、過ちを犯す者が、正しくなるまで、付き合い続けました。

「み神のみわざは、すべて正しい」……私たちがそのように神を賛美するのは、この方が間違ったことを間違ったまま、放置しないことを知っているからです。敵が敵のままでいることを、罪人が罪人のままでいることを、神様は放置できません。裁きを宣告した相手に、信じて救われ、神の国で一緒に食卓へ着くように、今日も呼びかけ続けます。

だから、改めて宣言します。神が死者の中から復活させたイエス・キリスト……この方こそ、私が疑い、否定して、隅へ捨ててしまったにもかかわらず、隅の親石となって、私を支えてくださった救い主です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

これを聞く者、揺れ動いている全ての者に、神の平和があるように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。