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とりなしたくない相手【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙一2:1〜7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 テモテへの手紙が、第一に勧めていることとして、次の教えが出てきました。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい」……その後にこう続きます。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」……皆さんの頭には、誰が思い浮かんだでしょう?

 王たちや高官……それって、現代の私たちにとっては、各国の政治家に当たる人たちです。連日、ニュースで目にしている顔が浮かびます。好感を持って、応援している政治家もいれば、反感を持って、批判している政治家もいるでしょう。むしろ、後者の方が多いかもしれません。

 全ての人のために、願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい、という教えは分かるけど、王たちや高官のため、権力と権威を持った相手のためにも祈りなさい、というのは抵抗がある。正直、あの政治家、あの官僚、あの議員のためには祈れない。不義や不正、汚職や圧力、弱者を虐げている官職のためには、とりなせない……。

 そういう気持ち、誰もが抱くことがあるんじゃないかと思います。もちろん、全ての人が救われるように祈るのは良いことです。全ての人に、神様の助けがあるように、神様の祝福があるように願うのは、間違っているとは思いません。でも、具体的な誰かを思い浮かべて、あの人に祝福があるようにとは、どうしても祈れない相手って、出てきますよね?

 初代教会の人々にとって、それはまさに、自分たちを迫害してきた、ローマ帝国の高官や、各地の領主だったでしょう。占領した土地で住民を支配し、徴税人を雇って税金を巻き上げ、反抗する人々は兵を率いて鎮圧する……決して、両手を挙げて応援できる存在ではなかったはずです。

 ユダヤ教の一派として、異端の一つとして見られていた初期のキリスト教会の人々なら王や高官は、尚更恐ろしい存在だったでしょう。これ以上、目をつけられたら宣教活動ができなくなる……信徒というだけで、仕事も財産も奪われてしまう……そんな背景のある時代、第一に勧められたのが、この教えです。

 王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと取り成しと感謝をささげなさい……果たして、手紙を読んだ人たちは、すんなり受け入れられたでしょうか? それとも難色を示したでしょうか? たぶん、抵抗を感じた人も相当多かったんじゃないかと思います。確かに、全ての人が救われるように祈るべきだけど、これは難しい……と。

 むしろ、イエス様を十字架にかけ、教会を迫害してきたローマ帝国が倒されるよう、王や高官が裁きを受けるよう、願い求める方が自然であって、彼らのために執り成すなんてふさわしくないんじゃないか? そう思う人もいたでしょう。テモテやテトスを派遣したパウロだって、王や高官に理解されず、囚人として見張られ続けた存在です。

 実際、「政治家のために祈ることができません」という声は、華陽教会でも、他の教会でも、色んな信徒から聞いています。私自身、日本の政治家でも、海外の政治家でも、この人のために祈ろう……という気持ちになれることは、ほとんどありません。むしろ、何でこの人のために祈らなきゃならないのか……と怒りが湧いてしまいます。

 当然、その人のために祈れない、というのは、王や高官、政治家相手に限りません。パワハラをしてくる上司や、いじめに向き合わない先生、確執のある身内のために、神様へとりなすこと、祈りをささげることは、誰だって難しいでしょう。仲の良かった友人でさえ、喧嘩中は、その人のために祈るということが、簡単にはできなくなります。

 「願いと祈りと取り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」……たったひと言の教えなのに、もう私たちはつまずいています。いくらそれが「救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」であったとしても、その人を思い浮かべるだけで、ストレスで胃がキリキリなる人にとっては、暴力的な教えです。

 テモテへの手紙を書いた人も、そのことはよく分かっていたはずです。他ならぬパウロが、世界宣教の第一人者が、王や高官に、イエス様の教えと業を証ししても、監禁されたまま、囚人であるまま、解放してもらえなかったわけですから。パウロのために祈っていた人たちへ「王や高官のためにも祈りなさい」と言ったら、みんなびっくりするでしょう。

 彼らは敵じゃないですか? 裁かれるべき人じゃないですか? どうして、失脚や没落を願うのではなく、執り成しなさいと言うんですか? 私たちは、そんな聖人にはなれません……そうなんです。みんな聖人じゃないんです。どんな人のためにも執り成しができる殊勝な人間じゃないんです。

 実際、キリスト教を迫害していた人が、弾圧していた人が、目が見えなくなって、何も飲み食いできなくなったとき、信仰深いイエス様の弟子も、その人ために、すぐには祈れませんでした。むしろ、今までの行いの報いを受けたのだから、再び見えるように祈ってあげるなんてとんでもない!……と思っていました。

 実は、そのときの迫害者とは、テモテやテトスを各教会へ派遣した、パウロ自身です。ローマ帝国の市民権を持ち、会堂長や祭司長とつながって、キリスト教徒を処刑するため捕まえていたかつての彼は、本来であれば、誰にも執り成してもらえないはずの人でした。再び目が見えるように、キリストと共に歩めるように、祈ってもらえないはずでした。

 ところが、イエス様はそんなパウロのために現れて、彼を自分の弟子たちのもとへ送り出し、弟子たちに彼を執り成すようにお願いします。受け入れてもらえないはずのパウロが、仲間たちに受け入れられるよう、アナニアやバルナバが責任を持って、彼のことを執り成します。

 最初に、イエス様によって、弟子たちによって、執り成しを受けて出発したパウロは、自分からも人々へお願いします。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」……私を見てください。私もかつて、執り成してもらえるはずのなかった人間なんです。それが、このように変えられたんです。

 もちろん、パウロが信徒のみんなに受け入れられ、教会全体から執り成しを受けられるようになるまで、長い時間がかかりました。誰かがパウロを執り成せないとき、他の誰かが彼を執り成し、少しずつ、その輪が広がっていきました。教会という共同体は、私が執り成せない相手を誰かが執り成し、誰かが執り成せない相手を私が執り成す場所なんです。

 やがて、執り成せない相手が、執り成す相手に変わっていくまで、互いに祈り合う関係になるまで、イエス様が間に入って、導き続けてくださいます。無理やり、自分を納得させて、執り成す必要はありません。「今、私に執り成すことができない相手を、あなたが執り成してください」と、祈ったっていいんです。

 神様は、互いに仲間になろうと思えなかった、期待さえできなかった迫害者パウロとキリスト者たちを、互いに支え合う宣教者と信徒の関係へ変えられました。私たち一人一人の関係も、新しく変えられていきます。すべての人々が救われて、真理を知るようになる御業は、今も、止まらないで、進み続けています。

 だから、第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。誰かが祈れない相手、執り成せない相手のために、互いに祈り合いなさい。自分を執り成せない相手と、期待さえできなかった、新しい関係になる日を待ちなさい。その日は確かに近づいています。ここに、今ここに……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。