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昔のことを思い出すな?【元旦礼拝】

《はじめに》

華陽教会の元旦礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 イザヤ書43:18〜19a

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

2024年1月1日、新しい年を迎えました。普段は、教団の聖書日課で、その年の元旦に読むよう指定された聖書箇所を読んでいますが、今回はいつもと違います。日曜日に渡される、礼拝プログラムの右上をご覧になれば分かるように、先ほど読んだ聖書の言葉は華陽教会における今年度の年間聖句です。
 
「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」……イザヤ書43章18節から19節a……最近は、聖餐式や愛餐式がないときの礼拝で、月に3回、読んでいる言葉でもあります。新年を迎えた今日の礼拝にも、ピッタリの聖句に聞こえるでしょう。
 
しかし、「初めからのことを思い出すな」と命じられて、「昔のことを思いめぐらすな」と釘を刺されて、「何だかな……」と感じた方も多いと思います。新しく出た聖書協会共同訳では、もっとストレートに「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな」と言ってきます。
 
思わず、「それっていけないの?」と反論したくなりますよね。昔を思い出しちゃいけないのか? 過去を振り返ったらいけないのか? 「振り返ってばかりでくよくよするな」というメッセージなら、コロナ禍を経験し、それ以前の様子を度々思い返している私たちには、ちょっと厳しく感じます。
 
だって、振り返りたくなりますよね? 今日は、礼拝が終わった後、残ってくれた方へ牧師が用意したぜんざいを振る舞う予定ですが、コロナ禍に入ってから4年間、できなかったことでした。過去を振り返ったから、昔を思い出したから「またやってみよう!」と考えて、再び始められたんです。
 
12月24日に行われたクリスマスの祝会も、数年前を思い起こし、こうやっていたな……ああやっていたな……と準備して、再開できたものでした。初めからのことを思い出さなければ、昔のことを考えなければ、みんなで喜びを分かち合った、あの集まりも、この集まりも、たどり着けませんでした。
 
去年一年間、華陽教会で歩んできた道のりを思い返しても、過去を振り返ること、昔のことを思いめぐらすことは、私たちが留まっていたところから、新しく出発するために、必要不可欠なことでした。どうやら、「昔のことを思いめぐらすな」というのは、単純に、今のことだけ考えて、前だけ向いて進みなさい……という話ではないようです。
 
そもそも、ここで言われている「初めからのこと」「昔のこと」っていったい何を指しているんでしょう? この聖句だけ切り抜くと、漠然と「過去のこと、昔のことは考えるな」と言われているように感じますが、もう少し具体的な話をしています。実は、ちょっと前の16節から17節には、こんな言葉が語られていました。
 
「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方」……教会にしばらく通っている方ならピンとくるでしょう。明らかに、出エジプトの出来事が語られています。
 
昔、エジプトで奴隷にされていたイスラエル人が、神様によって作られた、海の中の道を通って敵から逃れ、重い労苦から解放された話……それは、過越の祭りを通して、繰り返し思い起こすよう、神様が命じたものでもありました。それだけ大事な過去なのに、どうしてここでは「先にあったこと、昔のことを考えるな」と言われてしまうんでしょう?
 
実は、預言者イザヤがこう伝えたとき、イスラエルの人々は、バビロニアによって自分の国を滅ぼされ、捕虜として外国へ連れて行かれ、自由になれない日が続いていました。昔は様々な奇跡によって助けられたのに、今はかつてのように助けてはもらえない……と嘆く人たちが増えていました。
 
もともと、辛い困難に遭っても、神様はこのように助けてくださる……という希望をもたらす記憶だったのに、いつの間にか、「これは過去の栄光であり、今は見る影もない」という悲しみに浸る記憶として、変質していたんです。人々は、現状に希望を見い出すためではなく、現状を嘆くために、昔のこと、出エジプトを振り返るようになっていました。
 
そのため、神様は預言者イザヤを通して語ります。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」……よく見なさい。過去に起きていなかったことが、もう既に始まっている。失ったもの、できなくなったことに目を奪われて、目の前に作られた道が見えなくなっている。
 
コロナ禍に入ってから、以前はできたこと、今はできないことに目を奪われることが増えました。昔はあったもの、今はなくなったものに、心が囚われることもありました。礼拝に来る人数は、感染症の拡大が収まってからも、もとのようには回復せず、毎週行っていたハレルヤランチは、何か行事があるときに再開するのでやっとです。
 
戦後、いっきに信徒が増えたようには受洗希望者も現れず、結婚式を教会でやる人も、滅多に見なくなりました。かつて起こったリバイバルは、いっきに起こった癒しの奇跡は、昔のようには聞きません。過去を振り返ると、失ったもの、できなくなったものが次々と頭に浮かんできます。
 
でも、既に新しいことが始まっています。過去になかった奇跡が起きようとしています。クリスマス祝会には、初めて礼拝に来た人が、そのまま最後まで出てくれました。夜には教会学校の子どもが、一緒に演奏をささげてくれました。過去には華陽教会を知らなかった人たちが、配信を見て、礼拝へ来てくれるようになりました。
 
幼稚園と協力して、子どもたちの夏祭りや、ハロウィンと宗教改革にちなんだお楽しみ会も始まりました。何年も同じメンバーだったオリーブ会やヒラソルの会に、初めての方が参加して、今まで聞かなかった会衆同士の好きな歌、好きな聖句を語り合うようになりました。
 
かつてなかったことが起きています。既に新しいことが始まっています。この先、昔のことを振り返って、何かを再開していくとき、私たちは「もとのようになること」を目指すのではありません。過去に起きたことをもう一度、期待するのではありません。過去を超えて、前より変化して、新しいことが起きるのを目指します。
 
「もとのように」できなくていいんです。過去に歩んだ道と同じところを進まなくていいんです。昔起こった奇跡をもう一度起こさなくてもいいんです。神様は、出エジプトを越える、新しい奇跡を起こすと約束しました。その言葉どおり、外国の支配に苦しんでいた人々は、戦争の勝利に変わる、救い主の到来を経験しました。
 
私たちも、「初めのように」「昔のように」なることを願って、過去を思い出すのではなく、新しいことが行われるために、神様が共に歩んでくださったことを思い起こします。だから、改めて言いましょう。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。