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あなたが手にかけた人【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 使徒言行録2:22〜36

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

イエス様の弟子たちが、約束された聖霊を受け、天下のあらゆる国の言葉で語り出し、世界中へ伝道していった、教会の誕生日「ペンテコステ」から一週間が経ちました。ペンテコステの翌週と言えば、「世界を造られた父なる神」と「子なる神イエス・キリスト」と「父と子から送られる聖霊」の「三位一体の神」を讃える祭日です。
 
聖霊を受けた弟子たちは、イエス様から命じられた宣教命令……「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19〜20)という言葉に従って、人々へ神様の教えと業を伝えていきました。
 
先ほど読んだ聖書の言葉は、まさに、イエス様が天へ昇って見えなくなってから、残された弟子たちが、最初に語ったメッセージです。弟子たちを代表して、ペトロはこう話し始めます。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です……」
 
ここから、イエス様がどのような方か紹介されていきます。イエス様は、かつて神様が約束された、イスラエルの新しい王であり、ダビデの子孫としてこの世に生まれ、様々な奇跡や業を行い、やがて完成する「神の国」を現した方です。しかし、新しい王を待っていたはずのユダヤ人たちは、もともと神を信じていなかった異邦人の手を借りて、イエス様を裁判にかけ、十字架につけて殺してしまいます。
 
しかし、イエス様は、死に支配されたまま朽ち果てることはなく、神様によって復活させられ、自分を見捨てた者たちに、自分を裏切った者たちに、自分を信じなかった者たちに再会し、「あなたがたに平和があるように(ルカ24:36)」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」と告げられて、和解と平和をもたらしました。
 
ペトロは、念を押すように、イエス様が生き返ったことを、繰り返し人々に伝えます。空腹だった人たちにパンを増やして満腹にさせ、病気で苦しんでいた人たちに手を触れて癒され、悪い者に取り憑かれていた人たちを解放してきたイエス様は、殺されたけれど、復活した。甦った姿を私たちに現し、天に昇って、神の王座に着かせられた。
 
そう、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」……ペトロの周りに集まっていた人たちには、これがどう聞こえたでしょうか? その日は五旬祭、「刈り入れの祭り」とも呼ばれる日で、大麦の初穂をささげる日から50日目、ようするに、収穫を祝って、神様へ感謝をささげる祭りの日でした。
 
エルサレムには、その日に合わせて、多くの人が、神殿へ献げ物をしに集まっていました。その中でも、特に目立ったのは「信心深いユダヤ人」でした。数世代前に、敵の捕虜として外国へ連れて行かれ、長年イスラエルの外で暮らしてきたものの、祖父や母から聞かされた、故郷の町で神様を礼拝することを願い、エルサレムへ移住してきた人々です。
 
何世代か前に日本へ連れて来られた在日朝鮮人の子孫が、家も仕事も失った故郷、韓国へ帰ってきたのと似ています。今まで暮らしていた外国から引っ越し、エルサレムで家を買い、仕事を探して、言葉を学び、再び故郷で暮らすようになった人……そのために必要な努力や苦労を考えると、形だけの信心深さではありません。
 
けれども、そんな彼らに、ペトロはショッキングな言葉を突きつけます。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」……そう、この日集まっていた人々は、一時的に外国から里帰りした人たちではなく、しばらく前に移住して、もうそこで生活している人たちです。
 
当然、イエス様がエルサレムに入城し、住民から「ダビデの子にホサナ」と歓迎を受けていたときも、祭司長たちの扇動によって「十字架につけろ」と罵られていたときも、息を引き取って神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたときも、彼らはエルサレムで過ごし、事件と遭遇していました。
 
信心深いユダヤ人にとって、これらの出来事が起こった「過越祭」も、故郷のエルサレムで家族と過ごす、重要な時期だったからです。つまり、彼らはあの日、イエス様を歓迎し、エルサレムに迎え入れた一週間後に、あっさり掌を返して「十字架につけろ」と叫んでいた、ユダヤ人の一部でもあったんです。
 
祭司長たちに扇動されるまで、イエス様のことを見たことも聞いたこともなかったような者たちではなく、神殿でイエス様が話していること、会堂で教えていたこと、道行く人たちを癒していたこと、近隣の村や町で起こされた奇跡も、見聞きしている人たちでした。あの日、あなたが見聞きしたイエス様は、殺されたけれど生き返って、私たちの王として、救い主メシアとして、神の国で王座についている。
 
それは、第三者が、「自分の知らないすごい人」を聞かされるのとは違いました。ペトロ自身が、何回も「あなたがたの間で」「あなたがた自身が既に知っているとおり」と告げているように、彼らは、よく知った人物について聞かされていました。それは、自分たちが最初、歓迎したにもかかわらず、十字架につけてしまった存在です。
 
あなたが訴えた人を、あなたが罵った人を、あなたが手にかけた人を、神は主とし、メシアとなさった……それが、最初にペトロが語ったメッセージでした。良い知らせとして聞くには、恐ろしい話でした。神様を信じて、故郷の町へ引っ越してきた、信心深い自分たちが、待ち望んでいたはずの救い主に手をかけ、殺してしまった。
 
その方は今、復活させられ、天に昇って、神の右に座しておられる……次に待っているのは何だろう? 自分たちへの怒りだろうか? 裁きだろうか? 復讐だろうか? 不安が募ってくるはずです。ちょっと前、彼らは激しい風が吹いてくるような音が、天から聞こえてくるのを耳にしました。それは、弟子たちのいる家中に響くような爆音でした。
 
この物音に、何事かと集まってきた人々は、家の中にいたはずの弟子たちが、天下のあらゆる国の言葉で話しているのを目にしました。気がつくと、弟子たちのいた家は野ざらしになっていたのか、ペトロは座っていた11人と共に立ち上がり、声を張り上げ、人々に語り始めます。まるで、突然嵐に襲われたか、爆発で家を吹き飛ばされた後のようです。
 
これは神の怒りだろうか? 今まさに、神の裁きが下っているのか? 驚き、怪しみ、戸惑っている人々へ、ペトロは大声で告げました。今日、天から私たちへ下されたのは、神の裁きではありません。約束された聖霊です。あなたがたが十字架につけて殺した方は、私たちへ聖霊を送って、あなたたちの故郷の言葉で、大切なことを告げさせています。
 
あなたたちに、裁きが下るようにではなく、聖霊を受けるように、今、私たちへ語らせています。だから、聞いてください。あなたたちが見聞きしたものを思い出してください。あの日、あの時、信じなかったあなたたちが、信じる者となるように、救いにあずかる者となるように、キリストが招いておられます。
 
ペトロの言葉は、一見すると、過ちを犯した者へ、間違いを突きつけるような、愚かさを指摘するような、鋭利な言葉に感じられます。しかし、彼自身、一緒に捕まるのを恐れ、イエス様を知らないと言い、キリストを引き渡した愚かな者の一人でした。イエス様を十字架につけて、見殺しにした一人でした。そんな自分を人目に晒して語ります。
 
あのとき、あなたたちの前で「キリストを知らない」と嘘をついた私のもとへ、裁きではなく、聖霊が下ってきたのを見てください。今まで、あなたがたに捕まるのを恐れて、閉じこもっていた私自身を、外へ押し出した聖霊の力を見てください。あなたがたが十字架につけて殺したイエスは、あなたたちにも聖霊を送られて、和解と平和をもたらします。私がその証人です。私たちがその証人です。
 
神様が信じられなくなったとき、どうしたらいいか分からないとき、祈る言葉も出てこないとき、聖霊はあなたに留まります。閉じこもって、沈黙して、座り込んでいた弟子たちを、外へ押し出し、言葉で満たし、立ち上がらせた聖霊が、あなたの上にも留まります。共に、賛美をささげ、祈りを合わせ、父・子・聖霊なる、神の栄光を讃えましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。