この世と戦う?【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 ヨハネによる福音書7:1〜7、ヨハネの手紙一5:1〜5
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
ヨハネの手紙一5章の冒頭で、「世に打ち勝つ」という言葉が3回出てきました。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」……どうやらイエス様を信じる信仰は、この世と対立するようです。
ちょっと穏やかじゃありません。信仰を持てば、慈愛に満ちた心になって、世の人々と平和に暮らせるようになる……そのように期待していたら、むしろ、世の中との戦いが待っている、世の中が敵になっていく……「神は愛です」という言葉が語られてから、わずか10節の間に、「愛」とは程遠い「対立」の話が出てきました。
実際、神の子であるイエス様は、度々、世の中と衝突しました。安息日に働いてはならないという掟を破って、体の麻痺した人を癒したことで、イエス様への迫害が始まります。当時、病気の人、障害のある人は、神から罰を受けた人、罪に汚れている人と見なされたので、神を礼拝する日にその人々を治療することは、ユダヤ人の反感を買いました。
さらに、イエス様は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言って、神をご自分の父と呼んだため、「自分を神に等しい者とした」と非難され、ますますユダヤ人から敵意を持たれます。ユダヤ人の多くは、イエスを神の子と信じておらず、「人間が神の子を装っている」と思われたからです。
神でないものを神のように扱うこと、それは「偶像礼拝」と呼ばれ、神から与えられた掟「律法」によって、厳しく禁じられていることでした。そのため、偶像礼拝に当たること、偶像礼拝に関わることは、できる限り排除することが、神の前に正しいこと、神に対して誠実なことと捉えられ、ユダヤ人は一生懸命、その掟を守っていました。
だからこそ、「神の子を装っている」と思われたイエス様は、ユダヤ人から命を狙われるほど憎まれました。ユダヤ人の多くは、偶像礼拝を避けるため、異教の神を信じている、外国の人々を忌み嫌い、関係を持たないようにしていました。しかし、イエス様は異邦人のためにも救いを語り、病を癒し、食事を共にしていたため、余計に嫌われます。
一方で、イエス様が多くの病人を癒し、食べ物に困っている人たちへ、わずかなパンを増やして、空腹を満たす奇跡を起こすと、大勢の群衆が後を追うようになりました。彼らは、様々な奇跡を起こすイエス様が、軍事的な指導者となって、自分たちを支配するローマ帝国を打ち倒してくれることを期待していました。
そのため、イエス様を独立国の王にしようと、連れて行こうとしたんです。けれども、イエス様は多くの人々が集まってくると、度々姿を消して、一人山に退かれました。自分が神の子であると、信じてもらう絶好のチャンスだったのに、武力行使を期待する人々へそれは間違った期待であると姿を隠し、敵を愛するように教えていきました。
イエス様が、自分たちの期待に応えてくれないことが分かると、大勢の弟子たちが離れていきました。心が離れていったのは、弟子たちだけではありません。ヨハネによる福音書7章には、イエス様の兄弟も「イエスを信じていなかった」と書かれています。彼らは苛立ちを露わにして言いました。
「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」……それはちょうど、多くの弟子たちが離れ去った後のことでした。
もしかしたら、イエス様が群衆の期待に応えず、民を率いる王となるため、エルサレムに上っていかないことを責めていたのかも知れません。ユダヤに行って、多くの人たちに奇跡を見せれば、ローマ帝国を打ち倒す力があると証明すれば、世の人々も認めてくれるし、再びついて来てくれる……そういうふうに、促したかったのかも知れません。
しかし、イエス様は、自分の兄弟たちにも、その期待は間違っていると諭しました。世の中は、あなたがたと同じように、敵を打ち倒すリーダーを望んでいるけれど、そのこと自体が、神の思いから離れている。共に救われること、和解すること、回復することではなく、一方を倒すこと、破滅させること、支配することに心が向いてしまっている。
ロシアとウクライナの戦争が始まったとき、「この敵を打ち倒すことが、神の望んでいることだ」と、一方の勝利を期待する声がありました。イスラエルとパレスチナの戦争が激しくなったとき、「イスラエルの勝利を願うことが、神の命じていることだ」と、一方の勝利を期待する声がありました。
しかし、本当に私たちが願うべき勝利は、ユダヤ人がローマ帝国に打ち勝つことでも、同じ信仰の国が異なる信仰の国に打ち勝つことでもありません。むしろ、敵を愛することを拒絶し、剣を持とうとする姿勢、拳を振るおうとする姿勢に、抵抗し、反対し、打ち勝つことが求められます。
軍馬ではなく、小ロバに乗って、エルサレムへ入城したイエス様は、自分を捕まえようとした敵に、剣を向けた弟子を叱り、切り落とされた相手の耳を癒しました。自分を嘲り侮辱して、「十字架につけろ」と叫んだ群衆のため、「この人たちをおゆるしください」と神様に願い、とりなしました。
この方を神の子と信じる人の信仰は、世に打ち勝つ信仰です。対立を煽り、憎しみを煽り、愛を失わせる世の中に新しい生き方をもたらします。今日読んだ手紙の直前には、こんな言葉もありました。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」
皆さんの目に見える兄弟には、誰が居るでしょうか? イエス様の兄弟たちは、イエス様を信じないで、他の人々と同じように、間違った期待を持っていました。けれども、その兄弟が祭りに上って行ったとき、イエス様は人目を避けて、同じ祭りに出向いていきました。信じてくれない、理解してくれない兄弟たちから離れませんでした。
また、何度も自分を殺そうとする同胞のユダヤ人からも離れませんでした。危険を顧みず、会堂へ行っては彼らに教え、神の国に迎えられるよう促しました。自分を陥れようとするファリサイ派とも、食卓を囲んで話をしました。彼らが倒され、滅ぼされることではなく、みんなが新しくされ、救われることを願いました。
敵に憎まれているにもかかわらず、敵との対話は拒まないどころか、自ら話しに行きました。イエス様の勝利は、敵を打ち倒すことではなく、敵を愛し、仲間になり、互いに愛し合う関係になることでした。実は、ヨハネの手紙一は、「互いに愛し合いなさい」という教えを最も強調している手紙です。
その前提には「神がまずわたしたちを愛してくださった」という事実があります。すぐには敵を愛せない、イエス様を信じられない私たちから、神様は離れることなく付き合い続けてくださいました。この方は、これからも必ずあなたと共に居てくださいます。私たちが新しい生き方に変わるまで、新しい命を得られるまで、付き合い続けてくださいます。
だから、今もなお、敵対している人たちと、この方が招いた食卓につく日を想像しましょう。今はまだ、期待できないことが、期待できる日を待ち望みましょう。主は、自分を裏切る者のため、自分を見捨てる者のため、パンを取り、杯を回し、感謝の祈りを唱えました。復活した自分に会っても気がつかない弟子のため、同じようにパンを裂きました。
そのパンが、あなたの手にも渡されています。あなたの手から、さらに分けられることが期待されています。互いに愛し合う掟は、まず、いただいたパンを分け合うことから始まります。だから、想像してください。憎んでいる者とパンを分け、対立している者と杯を回す日が来ることを。
憎しみが、対立が、消え去って、共に感謝の祈りをささげる日々が来ることを……そう、神の国は近づいています。キリストはあなたの内におり、私たちの間におられます。あなたと新しく出会われて、あなたをこの世に送り出します。さあ、キリストの平和の使者として行きなさい。アーメン。
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