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人殺しなのか神なのか?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録28:1〜10

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 イエス様の教えと業をローマでも伝えるため、宣教者パウロは、囚人という身分になりながらも、船に乗って、カイサリアからシドン、ミラ、クレタ島へと渡ってきました。しかし、「まだ出発しない方がいい」というパウロの警告は無視されてしまい、船はクレタ島を出発し、激しい暴風に遭い、難破してしまいます。

 しかし、「だれ一人として命を失う者はない」とパウロが言ったとおり、何とか全員が陸地に上がり、助かることができました。彼らがたどり着いた島は、もともと目指していたフェニクス港ではなく、マルタ島と呼ばれる知らない島でした。「島の住民」と訳されている言葉は、もともとギリシャ語を話さない、フェニキア語を使う人々を指しています。

 つまり、パウロたちユダヤ人にとっては、異教の民との混血が進んだ異邦人、異なる信仰の持ち主を象徴するような人々でした。けれども、彼らは難破したパウロたちを親切にもてなし、降る雨と寒さをしのぐために、すぐに焚き火を起こしてくれました。サラッと書いてありますが、276人の遭難者をもてなすのは、大変なことです。

 しかも、この船に乗っていたのは、船主や船員たちだけでなく、武器を持ったローマの兵隊と、彼らに連行される囚人たち……いくら弱って傷ついた相手とはいえ、突然、自分たちの島に現れた大勢の外国人は怖かったはずです。どうやら、正義の女神を信仰する島の住民は、その名のとおり、正しいことのために勇気を出せる人たちだったんでしょう。

 そんな中、パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出てきて、彼の手に絡み付きました。新共同訳と聖書協会共同訳では「絡みついた」となっていますが、本来は「咬みついた」と訳される言葉です。蝮に咬みつかれたらどうなるか、血清や薬もないこの時代の島では絶望的な展開です。

 島の住民たちは、パウロの手に咬みついて、ぶら下がった毒蛇を見て言いました。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」……そして、体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思い、恐る恐る様子をうかがっていました。

 確かに、囚人として連行されている人物ですし、そのことは服装からも分かったでしょう。乗っている船が難破して、ようやく陸地についた瞬間、蝮に咬まれた状況を見れば、大いなる存在から罰を受けた……とみなされても不思議ではありません。もし、彼が神に愛される正しい人なら、こんな不幸が続くのはなぜですか? と言いたくなります。

 実際、旧約聖書に出てくる神の人モーセは、木の杖を手にとって蛇に変えたり、その蛇を手にとって木に戻したりできました。蛇を掴んで咬まれるのは悪人で、咬まれずに扱えたら善人、という考え方は、異邦人でなくてもあり得たでしょう。おそらく、島の住民だけでなく、パウロの仲間たちも、息を呑んだのではないでしょうか?

 ところが、パウロは自分の手に咬みついた蛇を振り落とし、火の中に入れ、何の害も受けずにいました。住民たちは、いつまで経っても、彼に異変が起こらないため、考えを変え、「この人は神様だ」と言い始めます。さっきまで「人殺し」と言われていたのに、今度は「神様だ」と言われ始める……目が回りそうな展開です。

 実は、パウロが「神様だ」と言われるようになったのは、これで二度目です。前回は、14章8節以下で、足の不自由な男を癒したとき、リストラに住んでいた人々から「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言われていました。その時は、パウロ自身がこのことを否定し、自分も同じ人間だと訴えていました。

 ところが、今回は、パウロが島の住民に「わたしは神ではありません」と否定するシーンがありません。それどころか、本当の神様について、イエス・キリストの教えと業について、島の人たちに伝える様子もありません。にもかかわらず、島の住民たちは、リストラの住民たちがしたように、パウロに犠牲をささげたり、崇め始めたりしませんでした。

 なぜでしょうか? 彼らは信心深く見えます。目の前に、人間の姿をとった神様が現れたとなれば、すぐさま祭壇を築き、焚き火から火を取って、焼き尽くす献げ物を供えようとしそうです。正しいことのために、276人の外国人を、すぐさまもてなすような人たちですから、それくらいの行動力はあるはずです。

 きっと、誰かが、パウロは神ではないことを伝えたんです。本当の神が誰であるかを教えたんです。パウロが自分で言わなくても、パウロについて、パウロが信じる神様について、証しした人がいたんです。考えられるのは、彼と一緒に命を守られた船員たち、兵士たち、囚人たちです。

 彼らの中から、島の住民に、パウロがどういう存在で、自分たちがなぜ助かったか、聞いてきたこと、体験したことを、伝えた人がいたんです。そして、以前の自分と同じように、パウロの信じる神を知らない、救い主イエス・キリストを知らない住民に、自分と出会ってくれた神様を、イエス様を、伝えていったんです。

 パウロの言うことを聞かないで、クレタ島を出発した兵士たちや船員たちは、信じないまま、受け入れないままの存在にはされませんでした。彼らがはっきりと「パウロの言うことを信じた」「信仰を告白した」という記述は出てきませんが、各々変化が生まれていきます。兵士と囚人と船員が、檻のない島で一緒に過ごし、互いに焚き火で暖まります。

 共に、島の住民のもてなしを受け、逃亡したり、逃亡を防ぐため殺したりすることなくパウロの傍についています。島の人々も、彼らをもてなしながら色々聞いていったでしょう。どこから来たのか? 何があったのか? どうして、あの暴風で、船が打ち上げられたのに、全員無事で済んだのか?
 
 問われた者たちは、キリストに遣わされた弟子たちのように答えます。どのようにしてパウロと出会い、パウロからイエス様について教えられ、それを信じなかった自分たちがなお励まされ、助けられ、変えられてきたことを……いつの間にか、自分たちもイエス様を信じないでは、いられなくなっていることを。

 こうして、蛇に咬まれてなお生きているパウロの姿と、パウロと一緒に守られた船員たち、囚人たち、兵隊たちの姿を見て、島の住民たちも、神様と、イエス様と出会っていくことになりました。彼らも、パウロを「人殺し」と思ったまま、「神様だ」と思ったままにはされません。パウロがなぜ、遣わされたのか知る者になっていきます。

 さらに、このシーンはちょうど、イエス様と、イエス様の弟子たちの間で起こった出来事をなぞるように、物語が進んでいきます。初めは、イエス様がどんな存在か分からないで、漁師をしていたシモン・ペトロが、弟子として歩み始めた後、熱を出した姑を癒してもらったことがありました。

 ここでも、8節以下で、パウロたちをもてなしてくれた島の長官プブリウスが、熱病に苦しんでいる父親を癒してもらうシーンが出てきます。これは単に、パウロが奇跡を起こした報告ではありません。この島の住民も、キリストの弟子の一人にされたという象徴的な出来事を伝えています。

 最初はパウロが誰か分かっていなかった人々も、彼のことを「人殺しなのか神なのか」と的外れな考えを抱いていた人も、そのままにはされなかったんです。パウロやペトロが分からないまま、間違ったままにされなかったように、一人一人に出会っていく、一人一人を新しくする、イエス様との出会いが、こうして伝えられているんです。

 あなたにも、この方は自分との出会いをもたらしてくださいます。日々、聖霊を送ってあなたを新しくしてくださいます。そして、あなたと出会う人、あなたを知る人たちに対しても、新たな生き方をもたらします。その恵みを共に受けとめ、共に味わい、共に伝えていきましょう。賛美と感謝と祈りをささげ、希望を分かち合いましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。