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生きて上陸できるのか?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書6:16〜21、使徒言行録27:33〜44

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 人生における困難は、よく「荒波」にたとえられます。自分は海に浮かぶ小さな船に乗っていて、時折、「試練」という名の大きな波がやってくる。転覆しないよう、必死につかまりながら、陸地を探して漂っている。次々と襲いかかる試練は、嵐の中で、波に揉まれる船のイメージで語られます。

 誰だって、一度は聞いたことのあるたとえです。たいていは、嵐がおさまるまで、耐え忍ぶしかないことを、陸を見つけてたどり着くまで、船を進めていくしかないことを話されます。船に乗った人間は、波を止めることも、暴風を止めることもできません。できるのは、岩や氷にぶつからないよう、必死に舵を切るだけです。

 そう、ほとんど何もできません。一発逆転の解決策はありません。マストが折れないよう帆をたたんだり、浅瀬に乗り上げないよう錨を降ろしたり、積み荷を投げ捨てて軽くしたり、それくらいしかできません。本当は、波を止めたいけれど、嵐をしずめたいけれど、船上で何をいじっても、天候は操作できません。

 あとは、祈るくらいです。「神様、この暴風を止めてください」「波をしずめて助けてください」「どうか陸地に上げてください」そうやって、神に叫んで願うことが、最後に残された「できること」です。生きて上陸できるかは、神様がこの叫びを聞いてくれるかにかかっている。

 実際、旧約聖書のヨナ書に出てくる人々は、嵐に遭って、船が転覆しそうになったとき必死に神へ祈りました。積み荷を海に投げ捨て、船を軽くし、それでも舵が切れなくなり、各々、自分が信じている神に助けを求めました。船には、信仰の異なる外国の人たちが乗っていましたが、皆、「あなたの信じる神に向かって祈るように」と呼びかけていました。

 ところが、神の言葉を預かって、人々に伝える使命を負っていたヨナは、異邦人の船長に、「起きてあなたの神を呼べ」と言われてからも、祈る様子を見せませんでした。神様の言葉を聞いた預言者なのに、ニネベの町でメッセージを語るよう使命を授かった人なのに、自分の神へ祈れませんでした。

 ある意味、当然かもしれません。彼は、神の命令に逆らって、ニネベの町と反対方向の船に乗り、逃亡を図っていたからです。その自分が、神様を呼んで祈っても、嵐がしずまるとは思えません。むしろ、神様から離れようとして、嵐を引き起こした張本人が自分です。どれだけ周りに勧められても、神様を呼べるわけがありません。

 また、新約聖書に出てくる、イエス様の弟子たちも、船の上で、激しい風に悩まされたとき、祈る様子を見せませんでした。最初に読んだ、ヨハネによる福音書では、弟子たちが、湖の向こう岸へ渡ろうとして、船を出し、間もなく強い風が吹き始めたと書かれています。既に暗くなっていた中、荒れ始めた湖は、命の危険を感じさせます。

 ところが、弟子たちは、暗闇で波に揉まれる中、神に向かって叫びません。神の子イエス・キリストの弟子なのに、「主よ、助けてください」「神様、この風を止めてください」と祈りません。何なら、自分たちの主である、イエス様を呼び求めることもありません。実は、困難に直面したとき、弟子たちが祈る姿は、そこまで多くないんです。

 この箇所は、マタイによる福音書とマルコによる福音書にも出てきますが、どの記事にも、弟子たちがイエス様を呼んだり、神様に祈ったりする様子はありませんでした。むしろ、イエス様の方から、湖を歩いて近づいてくると、誰が来たのか分からないで、恐れて怖がってしまいます。他の福音書では、イエス様を見て「幽霊だ」と言う始末です。

 ある意味、当然かもしれません。イエス様は少し前まで、弟子たちと一緒に居ましたが、わずかなパンと魚を5千人以上の人たちへ分け与える奇跡をした後、急に姿を消していました。弟子たちを連れていかないで、一人で山に退いていました。弟子たちはなぜか自分たちだけで、湖の向こう岸へ行かされます。

 他の福音書では、イエス様が「弟子たちを強いて船に乗せ」自分は一人山に登って、祈りに行ったことが書かれていました。その船を漕ぎ出した途端、突風に襲われるわけですから、狙ったようなタイミングです。それこそ、神に背いたヨナの船が、大風で砕けんばかりになったように、自分たちも、神の怒りを受けたのかと感じたかもしれません。

 自分たちだけで、向こう岸へ渡るよう、船に乗せられた時点で、何か罰を受けることになっていたのかもしれない。イエス様から見切りをつけられ、神様に見捨てられたのかもしれない。そう思っても不思議ではありませんでした。彼らは神様に祈れず、イエス様を呼べず、怖がっていることしかできませんでした。

 さらに、後から読んだ使徒言行録にも、やっぱり神様に祈らない人たちが出てきます。何とそれは、新約聖書に数々の手紙を残したパウロの乗った船でした。この船は、ローマへ囚人を移送している途中の船で、船員の他に、多くの囚人と、囚人を護送する兵士たちが乗っていました。実は、パウロも迫害によって捕えられた囚人として乗っていました。

 パウロは、囚人のわりに、百人隊長から親切な扱いを受けており、比較的自由に、人と会うことが許されていました。イエス様の教えと業について、船の中でも、船の外でも、普段から語り、聞かせていました。百人隊長も、彼の話をよく聞いていたようですが、航海については、パウロよりも船長や船主の方が信用されました。

 このまま船を出せば、積み荷や船体ばかりでなく、全員が危険な目に遭ってしまう、というパウロの忠告は無視されて、彼らの乗った船はフェニクス港を目指して出発します。しかし、間もなく海には暴風が吹き荒れ、風に逆らって進むことができなくなり、積み荷や船具を投げ捨てても、コントロールすることはできませんでした。

 暴風は何日も続き、太陽も星も見えず、2週間以上が経過しました。その間、船に乗っていた人たちは、神に向かって叫んだり、助けを求めたりすることはありませんでした。船を失いたくない船長や船主も、囚人の護送を任されていた兵士たちも、誰一人、祈る姿を見せません。

 ある意味、当然かもしれません。神様の言葉を伝え、イエス様の教えと業を語ってきたパウロの忠告を無視した結果、こうなったからです。何なら、様々な罪を犯した囚人たちを乗せているわけですから、余計に、神様の怒りを呼んだと思っても、おかしくありません。さらに、十四日目には、錯乱して、逃亡しようとする船員まで出てきました。

 276人を乗せた大きな船さえ、転覆しそうなわけですから、小舟を海に下ろして乗ったら、ひとたまりもありません。パウロは、逃げようとする船員たちが海に投げ出されないよう、彼らが小舟へ乗り込む前に、綱を断ち切ってしまいました。おかげで、この船員たちが、海に投げ出されることはありませんでしたが、小舟を失ってしまいました。

 つまり、どこか陸地を見つけても、安全に上陸することはできなくなったわけです。失敗に次ぐ失敗、それも、自分たちだけ助かろうとして、ますます全員を危険にさらすという、とんでもない罪を犯した人たちが、一緒の船に乗っています。もはや、神様を呼んで助けを求めても、待っているのは、裁きしかないように感じます。

 けれども、パウロはついさっき、小舟を失うきっかけとなった船員たちや、自分の言うことを聞かなかった兵士たち、そして、罪を犯して護送されている囚人たちに言うんです。「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです」……そして、みんなの前でパンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、食べ始めました。

 これが、この船で最初に行われた祈りです。神様の言うことを聞こうとしなかった人たちに、信じなかった人たちに、背いて、裏切って、罪を犯した人たちに、パウロは目の前でパンを裂き、一緒に食べようと呼びかけます。「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」と言って、感謝の祈りをささげます。

 誰も、神様を呼べませんでした。イエス様に「助けて」と言えませんでした。祈ることができずにいました。しかし、そんな彼らに与えられたのは、神様が共におられる希望です。神に背いて、祈ることさえできなかったヨナは、海の中へ投げ込まれた後、大きな魚に呑み込まれ、陸地へと吐き出されました。

 神に祈れず、イエス様を呼べなかった弟子たちは、湖の上を歩くイエス様に言われました。「わたしだ。恐れることはない」……パウロの忠告を無視し、過ちを重ね、神を求めることもできなかった船員たちは、元気を出すよう、パンを与えられました。それはかつて、イエス様が弟子たちに、パンを分けられたときと同じ光景でした。

 このあと裏切る弟子たちに、イエス様は感謝の祈りを唱えてパンを裂き、「取って食べなさい」と与えました。復活しても、自分だと分からない弟子たちに、イエス様は感謝の祈りを唱えてパンを裂き、「取って食べなさい」と渡しました。それは、信じない者が信じるように、希望のない者が希望を持つように、新しく変えられる食事でした。

 生きて上陸できるのか、希望を持つことができなかった、ヨナも、弟子たちも、船員たちも、自分たちが呼ぶことのできなかった神様に、イエス様に、近づかれ、呼びかけられ、助けられていきました。祈る言葉が出てこないとき、祈る気持ちになれないとき、あなたが待つべき未来は、裁きではありません。

 どうか、あなたの前に差し出されるパンを受け取ってください。安心するよう呼びかける、イエス様の言葉を受け取ってください。「わたしだ。恐れることはない」「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」……あなたの手が、神様の愛と平和で満たされますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。