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指導者を送り出す【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録15:22〜29

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

教会が建てられていった始めの頃、初代教会の時代にも、既に多くの課題や問題が発生していました。原因の一つが、今までユダヤ人ばかりだった教会が、エルサレムにしかなかった教会が、世界各地に建てられて、異邦人の信徒が増えていき、信仰生活の多様化が進んでいったことです。
 
これまでは、ユダヤ人としてイスラエルで生まれ、ユダヤ人の社会で信仰生活を送ってきた人々が、異邦人として外国で生まれ、外国で信仰生活を送る信徒に、何を守るよう教えるか、どこで一致することを目指していくか、問われるようになったことです。教憲教規の規定や解釈を巡って、議論と論争が続いている、今の教団とも重なります。
 
当初、初代教会の間では、今まで多くを占めていたユダヤ人と同じように、異邦人も割礼を受け、モーセの慣習に従わなければ救われない……と教える声がありました。割礼というのは、男性の包皮の一部を切り取る儀式で、ユダヤ人であれば、生まれて間もなく行われますが、成人した異邦人には、ハードルの高い掟でした。
 
子供の場合は、大人にやってもらえますが、大人の場合は、誰かを手伝わせるわけにいかず、痛みに耐えて、自分でやらなければなりません。傷が癒えるまで碌に動けず、家族を養うこともできません。それでも、その掟を守らせなければ、自分たちと同じようにならなければ、一緒にやっていくことはできないと、訴え続ける人たちがいました。
 
だって、旧約聖書に書いてある、律法で定められている、神様がそう命じているから、そうさせるのが正しいんだ、異邦人のためなんだと、彼らは考えていたでしょう。決して異邦人を排除するためではなく、異邦人の救いのために、正しく教えを守るために、善意で訴えていたんでしょう。
 
そこで、史上初の教会会議と呼ばれる、エルサレムの使徒会議が開かれます。この会議では、生活スタイルの違う外国であっても、もともと異なる信仰を持っていた者も、神様から聖霊を受けて、共に礼拝するようになったことが、パウロやペトロを通して伝えられました。
 
神様は、既にこの人たちを受け入れている。この人たちを自分の民、神の民としてユダヤ人と同じように招いている。それなのに、私たちが条件をつけて、彼らを拒んでしまうのは、神様の望むところじゃない。ユダヤ人も、異邦人も「神の民」「キリスト者」として求められていることは、同じやり方をすることではなく、同じ神様を信じることだ。
 
そうして、協議の結果、満場一致で「異邦人に割礼を求めることはしない」という結論になりました。驚くべき変化です。異邦人に厳しいことで有名だった、ファリサイ派から信徒になった人たちも、かつては異邦人を焼き滅ぼそうと口走っていた使徒の一人も、満場一致で、割礼を受けてない異邦人を仲間に迎えると決定したんです。
 
さらに驚くべきことに、この決定を、アンティオキアと、シリア州と、キリキア州に住む異邦人へ伝えるため、エルサレムで指導的な立場にいたユダとシラスが派遣されます。ちょっと忘れそうになりますが、使徒会議が開かれるようになったとは言え、エルサレムの教会は迫害で壊滅的なダメージを受け、経済的にも困窮しています。
 
後に、パウロが献金を集めて、エルサレムへ届けにいったことからも分かるように、当時のエルサレム教会は、決して安定した状態ではありませんでした。むしろ、信徒が増えて、教勢を伸ばしている外国の教会よりも、ずっとずっと厳しい状態でした。そんな自分たちの教会から、指導的な立場にいる2人をパウロとバルナバと共に送り出すんです。
 
指導的な立場と言っても、単なる先生とは違います。32節に、「ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ」たと出てきます。迫害で一旦仲間が去った後、また少しずつ戻ってきた教会を、この2人がどれだけ支えてきたかは想像に難くありません。
 
教会員としては、この2人が自分たちの教会を出て行って、他の教会を巡り歩くことは心穏やかじゃないと思います。パウロとバルナバと一緒に、向こうへ留まって、帰ってこなかったらどうしよう? アンティオキアやキリキア州の人たちが、帰らせてくれなかったらどうしよう? 本当に、ユダとシラスを送り出さなきゃいけないのか?
 
いやいや、パウロとバルナバに私たちから書き送った手紙を持たせれば十分じゃないですか? 今、私たちの教会だって、かなり厳しいじゃありませんか? イエス・キリストの名のために身を献げている熱心な指導者を、2人も外へ送り出すって、私たちはどうなるんですか? 先生が不在の間、ますます、うちが厳しくなるかもしれないのに!
 
そんな反応があってもおかしくない。それなのに、会議のあと、エルサレム教会は、パウロとバルナバに、ユダとシラスを同行させ、丁寧な手紙を書いて送り出します。もはや異邦人を拒む姿も、自分たちに合わせようとする姿もありません。むしろ、自分たちが異邦人の教会のために、普通ならできない決断をして、自らの指導者を送り出します。
 
使徒会議の決定が記されたこの箇所は、教会の中で、間違った意見に正しい意見が勝ったという話ではないんです。むしろ、容易には覆せない自分の立場を覆し、相手を変えようとしていた者が、自分自身を変化させ、古い生き方から、新しい生き方になっていく、ダイナミックな話なんです。
 
神様は、私たちが見出せなかったことを見出せるように、受け入れられなかったことを受け入れられるように、選択できなかったことを選択できるように、日々、聖霊を送って新しくしてくださいます。それは、聖書の解釈や、教憲教規の規定を巡って議論を続ける教団や教区でも同じです。
 
どうか、「正しい意見」で「間違った意見」に勝とうとする姿勢ではなく、意見が衝突する者と一緒に、新しい生き方へ変えられていく、聖霊の導きを信頼して、歩んでいくことができますように。最初の使徒会議で起きた奇跡が、私たちの間にも実現していくこと、実現しつつあることを、信じて歩めますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。