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信教の自由と衝突【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録19:21〜27

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

異なる宗教、異なる信仰、異なる信者がぶつかり合う……典型的な出来事が、エフェソでの騒動として、使徒言行録に記されています。宣教者パウロが伝えるキリスト教と、エフェソに神殿が建っている、女神アルテミスへの信仰……両者が衝突し、暴動に発展し、収集がつかなくなる様子は、まさに、小さな宗教戦争です。
 
現在、多くの先進国では、これを防ぐために「信教の自由」が保障されています。信教の自由とは「宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由」であり、「何を信じるか、何を信じないかが尊重される権利」です。つまり、相手に、自分と同じ信仰を持つよう強制したり、むりやり改宗させたりすれば、「信教の自由に反している」ということになります。
 
よく日本でも、「自分の信仰を押し付けてはならない」とか、「ひとの信仰を否定してはならない」と聞きますよね? 「福音」を、「良い知らせ」を、キリスト教を伝えるときも異なる信仰を否定したり、攻撃したりしないように、相手を尊重し、誠実に伝道できているかが問われます。
 
ところが、エフェソで伝道していたパウロは、デメトリオという銀細工師から、「他者の信仰を否定して、蔑ろにしている」というような批判を受けます。エフェソでは、女神アルテミスを祀る神殿の模型が、銀細工師によってたくさん作られ、多くの人がそれを所有し、大事にしていました。
 
しかし、パウロは以前から「手で造ったものなどは神ではない」と言っていたため、「これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがある」とデメトリオたちが心配します。「評判が悪くなるおそれがある」ということは、単なる工芸品として、美しい置物として、売り買いされていたわけじゃなさそうです。
 
高額な神殿の模型を置くことで、女神の恩寵が多く受けられる……という、開運商法に近いビジネスがあったのかもしれません。一方で、アルテミスの神殿を指して「あそこには神なんていない」「女神アルテミスなんて存在しない」と言われたら、もともと信仰していた人が、腹を立てるのも分かります。
 
キリスト教徒の私たちが、神社仏閣を指差して、「あれは偶像礼拝だ」「本当の神じゃない」と言うようなものですから、相当失礼です。もし、そういう言い方をして改宗を迫るなら、パウロの伝道方法も「何を信じるか、何を信じないかが尊重される権利」を侵した宗教カルトの勧誘と、そう変わらなく見えるでしょう。
 
しかし、デメトリオたちの扇動によって、野外劇場で始まった暴動は、町の書記官によって治められ、パウロたちに非のないことが伝えられます。「諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない」……どういうことでしょう? パウロは、ひとの信仰を否定したんじゃなかったのでしょうか?
 
改めて注意して見ると、パウロがエフェソの町でキリスト教を伝えていたのは、ユダヤ人の会堂や、ティラノという人の講堂でした。ところかまわず出て行って、すれ違った人を捕まえて、話を聞かせたわけではありません。実は、パウロの伝道旅行を見ていくと、ほとんど決まったところで、そこに集まった人たちに向かって、話をするのが常でした。
 
つまり、女神を信じる人の集まりに、アルテミスの神殿に、パウロが自ら乗り込んで、キリスト教を伝えていたのではありません。彼が、会堂や講堂で話しているところに、色んな人たちが集まって、噂が広がっていくうちに、もともと女神を信じていた人も、話を聞きに来て、キリスト教を信じるようになったんです。
 
実際、パウロはアテネでも、至るところに偶像があるのを見て、憤慨しながらも、最初から、町の人々の信仰を否定するような言い方はしませんでした。無理やり改宗させるようなこともしませんでした。嫌がる人たちへ押しかけてではなく、興味を持った人たちに連れていかれて、アレオパゴスの真ん中で話しました。
 
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」
 
「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」……こう聞くと、決して、ひとの信仰を蔑ろにしたわけじゃないことが、感じられると思います。パウロはアテネの人にも、エフェソの人にも、異なる信仰だからと言って、人格を否定するような態度は見せませんでした。
 
むしろ、銀細工師の扇動でパウロたちに腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫び出した群衆の方が、異様な熱狂を見せています。パウロは一言もエフェソ人を悪く言ったり、アルテミスを馬鹿にしたりしていませんが、群衆はそんなこと関係なく、彼の仲間を捕えて、野外劇場になだれ込みます。
 
劇場で、パウロと同じユダヤ人が話そうとすれば、一斉に、声を被せて「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間近くも叫び続けます。女神アルテミスを讃える、宗教上の行為と言えばそうですが、彼らが捕えて連れてきた、パウロの同行者は、その意志を尊重されず、無理やり連れて来られています。
 
事態を収集するため、弁明しようとしたユダヤ人も、ユダヤ人という理由で、異なる信仰の持ち主だという理由で、黙らされてしまいます。これに耐えきれなくなって、パウロの仲間たちがキリスト教の信徒を辞めたら、アルテミスへの信仰に改宗したら、それこそ「何を信じるか、信じないかが尊重される権利」を侵された出来事になるでしょう。
 
繰り返しますが、信教の自由とは「宗教を信じ、宗教上の行為を行う自由」であって、「人権侵害や不法行為を行う自由」ではありません。宗教を理由にすれば、何をやっても許される権利ではありません。目的に信仰が絡んでいても、手段とやり方が間違っていれば、その行為は尊重されません。
 
実際、エフェソの町の書記官は、冷静に、この集まりが、他者の権利を侵害した無秩序な集会になっていることを指摘します。デメトリオと仲間の職人にも、誰かを訴え出たいのなら、法廷か地方総督へ訴えるか、正式な会議で解決してもらいなさい、と注意します。幸いにも、エフェソには、自分たちの誤りを正す作用が、ちゃんと働いていました。
 
一方、現在の教会はどうでしょうか? 私たちは、自分の宗教が、自分の信仰が、尊重されることを求めますが、他者の宗教や、他者の信仰も、ちゃんと尊重できているでしょうか? 自分と同じ信仰を持ってほしい子どもたちに、友人に、キリスト教を伝えるとき相手の意志をきちんと尊重できているでしょうか?
 
昨日、日本基督教団のホームページで、「いわゆる『宗教二世』問題を新たに作らないための約束と宣言」が公開されました。これは、宗教団体に属する親が、法令に違反する行為や人権侵害を容認する教えや指導に従うことで、尊厳を傷つけられてきた子どもたちの訴えから、ようやく作られたものです。
 
今度の宗教改革記念礼拝のあと、教会研修会でも取り上げますが、本日の聖書研究祈祷会でも、最後に、この約束と宣言を読んで、誠実な伝道と、信仰継承のあり方について、考えていくきっかけにしたいと思います。

私たちの教会が、無秩序な集会にならないように、悲しみや苦しみを引き継ぐ群れではなく、喜びを分かち合う群れとなるように、これからも祈りを合わせていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。