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約束されたのに【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヘブライ人への手紙11:32〜12:2

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

信仰によってできること、信仰によって分かること、信仰によって得られるもの……皆さんは、それらに魅力を感じるでしょうか? ヘブライ人への手紙11章には、旧約聖書に登場する様々な人物が出てきます。アベル、エノク、ノアに続いて、アブラハムとサラ、その子孫であるイサクにヤコブ、ヨセフと来て、モーセの後は娼婦ラハブも出てきます。
 
彼らは、信仰によって死を経験しないまま、天の国に移されたり、信仰によって自分の家族を救ったり、信仰によって困難な命令を実行し、信仰によって子宝に恵まれ、信仰によって神様に命を救われました。先ほど歌った賛美歌にも、信仰によって出発し、イスラエルの先祖となった、ヤコブの姿が出てきました。
 
彼らは、信仰を持ったことによって、破滅を免れ、力を与えられ、救いをもたらされたように思えます。確かに、この人たちは、その生涯に多くの奇跡を体験し、「信仰を抱いて死にました」と言われますが、13節に気になる言葉が出てきます。それは「約束されたものを手に入れませんでした」という言葉です。
 
この人たちは、神様を信じて命を救われ、勇気を与えられ、力をもたらされたのに、約束されたものを手に入れていなかった……土地を与えられ、子孫に恵まれ、財産も増し加えられたのに、約束されたものは手に入れていなかった……どうやら、神様が約束されたものとは、これらに勝るみたいです。これ以上何があるんでしょう?
 
32節からは、士師や王、預言者の名前も挙げられて、信仰によってできたこと、信仰によって得られたものが、次々と列挙されています。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、その他の預言者……彼らは、信仰によって国々を征服し、信仰によって正義を行い、信仰によって弱かったのに強くされ、敵軍を敗走させました。
 
中には、信仰によって獅子の口をふさぎ、信仰によって燃え盛る火を消し、信仰によって身内を生き返らせてもらった人も出てきます。亡くなった者が甦る、死んでも命を与えられる。これはもう、「約束されたものを手に入れた」と言って良さそうです。どうやら、神様が約束されたものとは、私たちの「死」に、打ち勝つものみたいです。
 
期待が高まります。けれども、信仰によって生きたはずの「他の人たち」が出てくるとちょっと雲行きが怪しくなります。この人たちは、信仰によって釈放を拒み、信仰によって拷問にかけられ、信仰によって鎖につながれ、投獄されてしまいます。初代教会で、ユダヤ人やローマ帝国から迫害を受けた、いわゆる殉教者です。
 
彼らは、信仰によって、石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺されました。信仰によって、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠きました。信仰によって苦しめられ、虐待され、追放されました。信仰によって生きたのに、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよって、不遇な生活を送りました。
 
本当は、信仰が認められていなかったから、信仰が足りていなかったから、そのような報いを受けたんだ……と思いたくなるほど、理不尽な目に遭っています。しかし、この人たちはすべて、その信仰ゆえに、神に認められていたと、39節に、はっきり記されています。にもかかわらず、約束されたものを手に入れませんでした。
 
手に入れたのは、拷問、嘲り、投獄、処刑、貧困、虐待、孤独でした……同じ、信仰によって生きた者でも、大きく異なる人生です。しかも、信仰の優劣でそうなったのではありません。この人たちはすべて、その信仰ゆえに神に認められていました。実際、最も不遇な扱いを受けて殺されたのは、他ならぬ神の子、救い主でした。
 
それなら、信仰によって、彼らはみんな、どんな苦しい人生も、平穏に感じることができたんでしょうか? 信仰によって不安にならず、怒りも湧かず、モヤモヤすることもなかったんでしょうか? 寂しくなったり、戸惑ったり、疑ったりせず、いつも満足することができたんでしょうか?
 
違います。私たちは、信仰によって、最後まで神様に従った方が、神の子イエス・キリストが、十字架につけられる前の夜、悶え苦しんでいたことを知っています。できればこの杯を、十字架の死を取り去ってほしいと、神様に願ったことを聞いています。イエス様も自分が理解されないことに、嘆き、呻き、憤ったことを見ています。
 
「信仰によって」故郷を離れ、知らない土地へ出て行ったアブラハムも、神様に約束された、息子の誕生を信じられず、笑ってしまった人物でした。「信仰によって」子をもうける力が与えられたサラも、アブラハムと同じく、その約束を信じられず、笑ってしまった人でした。
 
「信仰によって」ヤコブとエサウに祝福を祈ったイサクは、実際のところ、リベカのように、神様の計画を聞くことなく、長男だけに祝福を送ろうとした人でした。「信仰によって」王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去った指導者モーセは、イスラエルの民を導き出す使命から、何度も逃れようとした人物でした。
 
これ以上、何を話しましょう。「信仰によって」国々を征服したギデオンは、本当に神様が一緒に来てくれると、なかなか信じられず、何度も試した人物でした。「信仰によって」獅子の口をふさぎ、敵軍を敗走させたサムソンは、神様の言いつけを破って、敵に捕えられた人でもありました。
 
「信仰によって」身内を生き返らせてもらった女性たちは、預言者に対し、怒りと恨みをぶつけた人たちでもありました。「信仰によって」動物の皮を来て暮らし、荒れ野で放浪し、投獄された洗礼者ヨハネは、イエス様が、本当に約束された救い主か、疑った人でもありました。
 
信仰によってブレなかった人って、実は一人もいないんです。信仰によってどんな困難も平気になって、どんな状況にも満足できた人なんて、聖書にも出てこないんです。にもかかわらず、この人たちはすべて、その信仰ゆえに「神に認められた」と言われています。人生で与えられてきた恵みより、更にまさったものを与えられる計画が告げられます。
 
それは、新しい命です。単に、死んだはずの者が生き返らされ、もう一度、この世でやり直せるという、古い命ではありません。朽ちることのない神の国で、朽ちることのない体に復活し、新しく生きていくことのできる命です。疑い、迷い、戸惑いながらも、神様から与えられてきた信仰によって、神様と共に生かされていく命です。
 
神様が、その約束をされたのは、他ならぬ、あなたです。「信仰によって」生きることができていないと思うなら、もう一度、思い出してください。あなたのように恐れ、怖がり、不安になって、戸惑い、迷い、揺れ動いて、信じたり、信じなかったり、神様に従ったり、背いたりしてきた人たちが「信仰によって」生きたんだと、神様が認めてられたことを。
 
神様は、あなたの信仰を、ちゃんと信仰として受け取っています。自分の愛する独り子を送って、揺れ動くあなたと共にいて、一緒に呻き、嘆き、憤っていることを知らせます。「神様に従えない」と項垂れるとき、「神様に応えるのが怖い」と叫ぶとき、あなたはあの日、ゲッセマネで悶え苦しんだ、イエス様と共にいます。
 
自分がやったことの罰を受け、報いを受けたと思うとき、神様に、自分を思い出してほしいと思うとき、あなたはあの日、隣で十字架に釘付けられた、イエス様と共にいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げられた、イエス様の右にいます。
 
思い出してください。あなたが「信仰によって」生きていることを。あなたがイエス様の姉妹として、兄弟として、神の子として、受け入れられていることを。もう既に、あなたは信仰によって義とされ、信仰によって神の子とされ、天の国の市民権が、与えられていることを……ブレても、揺れても、神の国へと至る道に、引き戻されていくことを。
 
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」……アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。