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敵意を手放せない【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨナ書3:3〜10、エフェソの信徒への手紙2:11〜22

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 「敵を愛しなさい」という言葉があります。イエス様が、弟子たちに教えた言葉です。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」……こういった教えを聞いていると、敵意を持つこと自体が、駄目なことのように感じてきます。

 イエス様から直接、この言葉を聞いた弟子たちにとって、群衆にとって、敵意を持つ相手とは誰だったんでしょう? それは、自分たちの国を占領し、イスラエルを支配していた異邦人、ローマ帝国の人間だったかもしれません。あるいは、ローマ帝国の傀儡であった、ヘロデ王とズブズブの関係を持つ、神殿の祭司長たちだったかもしれません。

 もしくは、献げ物を規定どおりにささげられない者、安息日を規定どおりに守れない者、病気が治らない者、障害がある者を「罪人」として厳しく断じたファリサイ派、律法学者だったかもしれません。イエス様も、これらの人々から、度々攻撃を受けました。病人を癒し、大胆に教えを語り、注目が集まるイエス様に、嫉妬と憎しみがぶつけられました。

 そんなとき、イエス様は、一切敵意を見せることなく、相手を否定することなく、対立しないように、優しい言葉だけかけたんでしょうか? 実は、そういうわけではありません。イエス様とサドカイ派、祭司長、ファリサイ派、律法学者が敵対するシーンは、けっこう、あちこちに出て来ます。イエス様からも容赦ない、非難と批判が浴びせられます。

 また、イエス様は、神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返し、怒りを露わにされたこともありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と……もう、敵意むき出しですよね?

 そんなエピソードを振り返っていると、エフェソの信徒への手紙に出てくる言葉の意味も、一筋縄では捉えられません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました……」

 敵意という隔ての壁……イエス様と人々の間にも、それがなかったわけではありません。イエス様の言葉を拒絶し、立ち去った人もいれば、イエス様自身が、誰かのために憤りを見せ、ぶつかったこともありました。一方で、対立していた関係であるにもかかわらず、イエス様は、祭司長たちやサドカイ派のいる神殿へ行くのを、決してやめませんでした。

 山でも、湖でも、どこでも人がついてくるのに、多くの人が集まってくるのに、イエス様は、自分に敵意をむき出しにする彼らのもとへ、訪れるのをやめません。また、イエス様を貶めようと、何度も罠をしかけるファリサイ派にも、家に招かれては食事をし、対話するのをやめませんでした。

 律法学者とも、何度も衝突する一方で「あなたは、神の国から遠くない」と認め合うこともありました。思い返せば、イエス様と様々な人との間には、何度も敵意が生まれていましたが、その敵意が、放置されたことはありませんでした。イエス様は衝突することを恐れ、言い合いになることを恐れ、敵との関係を断つ方ではありませんでした。

 むしろ、あきらめずに出会い続け、語り続け、声を聞き続けていました。関係を築く、時間と労力を惜しみませんでした。弟子たちの裏切りに遭い、群衆から掌を返され、自分を十字架につけろと叫ばれたときも、その敵意を正面から受けとめ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ととりなしました。

 この時も、群衆からのイエス様への敵意は消えていません。異邦人の兵士からのイエス様への敵意も残っています。しかし、イエス様が十字架で息を引き取った瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、岩が裂けるほどの地震が起こります。全地は暗くなり、太陽が光を失います。人々の口からも声が失われ、胸を打ちながら帰っていきます。

 嘲笑う声、蔑む声、侮辱する声が聞こえなくなり、沈黙のときが訪れました。「本当に、この人は神の子だった」「本当に、この人は正しい人だった」という言葉がポツリと聞こえて来ます。しかし、正しい人を殺してしまった、神の子を十字架にかけてしまった人々の悲鳴や断末魔は続きません。

 「十字架につけろ」と言った自分に、「殺せ、殺せ」と叫んだ自分に、独り子を殺された神様から、雷が落とされてもおかしくないのに、何も起こりません。ユダヤ人も、異邦人も、互いに顔を見合わせながら、何も言えずに帰っていきます。なぜ、私は無事なんだろう? なぜ、神から敵意をぶつけられないんだろう?

 それはまさに、イエス様が、十字架の上で敵意を滅ぼされたからでした。彼らとぶつかって、十字架につけられた後も、関係を終えることなく、復活して和解する道を作ったからでした。自分を信じなかった者も、見捨ててしまった者も、十字架にかけてしまった者も、イエス様と再会し、和解する道が作られます。

 この方は、敵意をそのままにして、隔ての壁をそのままにして、私たちを置いていく方ではありません。もうどうしようもなくなった私たちのもとへ、戸に鍵をかけていようと、閉じこもっていようと、部屋の真ん中に現れて、新しい関係を築いてくださいます。どんなに衝突しても、私たちから離れないで、新しく出会い続けてくださいます。

 そう、「敵意を滅ぼす」というのは、最初から敵意を持たないよう、相手に踏み込まないことではないんです。イエス様は、私たちの中へ踏み込んで来られます。見られたくなかったものも、触れられたくなかったものも、互いに晒し合える関係を、根気よく築いてくださいます。

 簡単には敵意を手放せない私たちにも、平和の福音を、良い知らせをもたらして、一緒に住まう者へと変えてくださいます。今はまだ、期待さえできない平安も、和解の道も、死を超えて実現される方が、あなたを引っ張ってくださいます。安心して、この方にぶつかり、訴え、願いなさい。既に、キリストはあなたの家族だからです。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。