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後は頼みます【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録20:25〜35

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」……これは、パウロがエフェソの教会の長老たち、つまり、教会の運営や指導を担う人たちへ、最後に贈ったメッセージです。彼は、アジア州での宣教を終えて、エルサレムへ帰ろうとしていましたが、今戻ったら、自分がタダでは済まないこと、死の危険があることを分かっていました。
 
エルサレムでは、アジア州以上に、キリスト教に対するユダヤ人やローマ帝国の迫害が激しくなり、逮捕、投獄、下手すれば、処刑される可能性もありました。パウロはもともと、祭司長やユダヤ人と手を組んで、キリスト教徒を捕まえて、投獄していた人間ですから、向こうからすれば、裏切り者、キリスト教に寝返った悪人です。
 
実際、彼は今まで何度も殺されかけており、敵の本拠地へ戻ったら、今度こそ無事では済まない状況でした。そんな中、今まで教えてきた、育ててきた教会の長老たちへ「後は頼みます」というふうに、遺言のような言葉を送ります。聞いている方も緊張します。本人から「皆もう二度とわたしの顔を見ることはない」と言われたんですから。
 
怖いのは、単なる応援だけでなく、弟子たちを突き放すような教師の言葉が続くことです。彼は長老たちに対し、自分がみんなに、イエス様の教えと業を、神の国の教えを宣べ伝えたことを振り返り、はっきりとこう言いました。「だれの血についても、わたしには責任がありません」「神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」
 
聞きようによっては、「これだけ言っても、信じない奴は仕方ない」「分からないなら、そいつが悪い」「後は野となれ山となれ……」というふうに、放り出したように感じます。「わたしには責任がない」「教えたことを守らなければ、自業自得だと思え」というふうに従えなかった人たちを見放したように感じます。
 
しかし、後に、パウロの名によるエフェソの信徒への手紙が書かれたように、パウロがアジアを離れてからも、その気遣いと心配は、彼らに向けられ、仲間が派遣されていきました。もう、私はタッチしないよ……という責任放棄の宣言ではなく、もっと力強い意味が、この言葉には込められています。
 
それは、長老たちへの信頼です。私が御国の言葉を伝えきれなかった、私が信じてもらえなかった、話ができなかった人たちに、今度はあなたがたが、イエス様の教えと業を伝えるんだ……パウロは言います。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」
 
自分だから、アジアの人々に神の言葉を伝えられたわけじゃない。聖霊が共にいて、遣わし続けてくれたから、あなたがたに神の教えを語ることができたんだ。私がここで会えなかった、避けられていた、信頼してもらえなかった人たちにも、聖霊が、あなたがたを押し出して、語らせてくださる。私が居なくなった後も……。
 
10月29日の教会研修会では、二世問題のことに触れながら、誠実な信仰継承とは何か、みんなで考えるときを持ちました。自分の子どもや孫たちに、親や兄弟、友人に、思わず、強引な信仰継承をしようとするのは、「自分が居なくなったら、もうこの人を導いてくれる人はいないんじゃないか」という不安もあると思います。
 
私が信仰継承に失敗したら、伝道を達成できなかったら、救われない人たちがいる……そんな恐怖です。実際、何とか教会へ連れてきたいと願いながらも、妻に、夫に、恋人に、子どもや兄弟、姉妹たちに、自分の言葉じゃ、声掛けじゃ上手くいかず、信仰を共有できない……という人は、決して珍しくありません。
 
パウロもそうです。自分の言葉だけじゃ、信じてもらえない人たちが、エフェソにも、アジアにも、ヨーロッパにも、たくさんいました。自分が行けなくなったところへ、弟子や仲間を送ったり、手紙で「彼らを助けてください」と頼んだり、たとえ自分にできなかったことでも、神様はこの群れを通して叶えてくださると信じていました。
 
あなたの隣人への伝道は、あなた一人が責任を負っているものではありません。あなたが居なくなったあとも、あなたが離れているときも、教会全体で担うものです。パウロは自分一人で責任を負い続けませんでした。自分が居なくなったあとにも、責任を持って、言葉を届けさせる人が、聖霊によって立てられ続けると信じていました。
 
実際、私は生前、「家族に信仰継承ができなかった」と呟いていた人の身内が、亡くなってから、葬儀を経て、教会へつながった出来事をいくつか知っています。息子は洗礼を受けなかったけど、息子を通して、祖母が話していた教会学校のメッセージを知り、聖書を開くようになった孫を知っています。
 
群れの力を信じずに、聖霊の導きを信頼せずに、自分の力で強引に信仰継承をするのではなく、自分が居なくなったあとも、聖霊によって立てられる人たちを信頼し、誠実に、愛と平和を伝えることが、私たちに求められている伝道です。もちろん、教会の中にだって、信頼できない不安な要素がは々出てきます。
 
パウロも、自分が去った後に、残忍な狼どもが、キリスト教の迫害者が、外からやってくるばかりでなく、教会の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする、偽教師や偽預言者が出てくる心配に気づいていました。しかし、後を託す仲間たちが、目を覚まして、弱い者を守り、みんなを立ち返らせてくれると、信じて送り出します。
 
本当に、私が居なくなったあとも、この人を導いてくれる群れだろうか? 私が連れてこられなかった身内、つなげられなかった友人に、みんな関心なんてないんじゃないか? そんな思いが向けられる群れから、安心して、信仰継承を託していける、誠実な伝道を続けていける、暖かい群れへと、一緒に育っていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。