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まさかのヤコブ【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録15:12〜21

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリスト教を信じるようになった異邦人、非ユダヤ人、異なる宗教の家だった者たち……彼らに対し、律法で定められている割礼を受けさせるべきか、受けさせなくて良いか、話し合われた使徒会議で、対立する意見が飛び交いました。割礼というのは、男性の包皮の一部を切り取る儀式で、信仰共同体の一員になる証でした。
 
しかし、異邦人たちへ「割礼を受けないと救われない」と教えることに、反対していたパウロたちは、割礼を受けてない人たちも、イエス様を信じて洗礼を受け、互いに愛し合って、神様に賛美をささげていることを報告しました。そして、異邦人を教会へ受け入れるのに、割礼を強制する必要はないと訴えました。
 
一方、ファリサイ派からキリスト教の信者になった人たちは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と訴えました。もともと、神様を信じていなかった、神の民でなかった異邦人や異教徒が、神の国に受け入れられて救われるには自分たちユダヤ人と同じようにならなければならない……そう思ったのでしょう。
 
彼らは、異邦人が自分たちの教会へ入れないように、排除するために、そのようなことを言ったというより、本当に異邦人が救われるには、どうすべきかを考えて、そのように訴えたんでしょう。かつては忌み嫌っていた外国の土地へわざわざ向かい、これまで避けてきた異邦人たちへ接触し、割礼を受けて救われるように教えていたからです。
 
本当に教会へ来てほしくないのなら、コミュニティーから排除したいなら、出向いて、教えて、救われるように促しません。おそらく、善意で訴えたんだと思います。だって、律法に書いてある。旧約聖書に記してある。かつて、神様が私たちへ与えた掟にガッツリ出てくるんだから、それを守るように教えることは、当然じゃないか?
 
同性愛を「罪」と訴え、救われたいなら、自分たちと同じ異性愛になるよう善意で教えてしまう行為と似ているように感じます。差別意識はなかったでしょう。排除するつもりもないでしょう。でも、そこには「自分たちと同じにならなければ救われない」という、無邪気で厄介な選民思想が存在します。今も形を変えて、私たちの間にたくさんあります。
 
使徒たちと長老たちは、この問題について、協議するために集まって、議論を重ねていきました。すると、神様に幻を見せられるまで、異邦人との接触や、彼らの食文化を拒んでいたペトロが立ち上がり、自分の見たこと、聞いたことを報告しました。神様は、異邦人にも聖霊を与えられ、受け入れられ、救いにあずかる者となさっていると。
 
「彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」……ペトロの告白は、使徒と長老たちの間に衝撃を走らせたと思います。パウロとバルナバの最初の報告だけで、議論が終わらなかったということは、直接イエス様に従ってきた使徒の中にも、異邦人の割礼を支持する人が、まだ何人かいたからでしょう。
 
そんな中、ペトロは、神様が自分たちと異邦人との間に、何の差別もしていないことをはっきりさせます。逆に言えば、自分たちはまだ、差別しているんだと正直に告白したんです。イエス様の恵みによって救われるのは、自分たちも異邦人も同じはずなのに、イエス様を信じること以外の条件を、彼らに課そうとしているんだと。
 
癇に障った人もいたでしょう。私は差別なんかしていない!……そう言い出しかけた人もいるでしょう。全会衆は一旦静かになって、バルナバとパウロの話を聞きますが、2人が話し終わったら、元ファリサイ派の信者や、納得してない使徒や長老が、異議を申し立てるかもしれません。
 
ところが、2人が話し終えたとき、意外な人物が口を開きます。それは、ペトロの漁師仲間で、ヨハネの兄弟だったヤコブです。彼は、パウロとバルナバを援護してこう言います。「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」
 
ようするに、割礼の有無は問わなくていいという意見表明です。なぜ、ヤコブの言葉を意外に感じるかと言うと、彼はイエス様と一緒にいたとき、異邦人や非ユダヤ人にあまり良い思い出がなかったからです。ちょうど、パウロとバルナバがエルサレムへ来る途中、道すがら、異邦人が改宗した次第を詳しく聞いて、一緒に喜んでいたサマリア地方の住民も、かつて、ヤコブがイエス様に同行したとき、歓迎しなかった人々でした。
 
ヤコブはその当時、サマリア人がイエス様を歓迎しなかったことに腹を立て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか(ルカ9:54)」と口にするくらい、攻撃的で、排他的な態度を見せる人物でした。イエス様から「ボアゲルネス(雷の子ら)」と呼ばれるだけのことはあります。
 
また、信仰的に物分かりが良かった方でもありません。イエス様が復活したのを、実の母から聞いたときも、それを信じようとせず、他の使徒たちと同様、たわ言だと思って無視しました(ルカ24:1〜11)。仕事の途中で、別れも告げず、父を置いて行ったこともありました(マタイ4:18〜22)。人を切り捨てることに、あまり躊躇がありません。
 
そんな人物だったにもかかわらず、ヤコブは今回、かつて滅ぼそうとした人たちを、忌み嫌っていた人たちを、救いにあずかる者として、同じ神の民として受け入れ、一緒にやっていこうとします。矢面に立つのを覚悟して、まさかの発言をしたんです。「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」
 
使徒会議で見られるそれぞれの意見は、単なる対立を示すものではありません。かつては異邦人を忌み嫌い、避けるように生活してきたファリサイ派が、彼らを受け入れるために必要なことを議論しました。かつては異邦人と会うのを拒み、接触も避けていた使徒ペトロが、彼らも自分たちと同じ「神の民」であることを証言しました。かつては異邦人に激しく怒り、滅ぼそうとした使徒ヤコブは、彼らを悩ませまいと意見表明を行いました。
 
この聖書箇所は、誰が間違っていて、誰が正しいかを表そうとするのではなく、それぞれがキリストと出会い、信仰生活を送り、古い生き方から新しい生き方へ変わってきたこと、さらに今、変わろうとしていることを、ドラマティックに描いているんです。そして今、私たちも変えられます。意見と意見がぶつかるとき、皆それぞれが新しくされます。
 
受け入れ難いもの、理解できないもの、向き合うことが困難なものに、向き合う力と優しさを、神様は与えてくださいます。今日も、聖霊によって、それらを豊かに受け取ることができますように。私たちみんなが、互いに新しくされ、一緒に新しく、キリストの体である教会を築いていくことができますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。