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癒すことより難しい?【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書5:12〜26

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「癒すことより難しい?」

聖書に出てくる「病の癒し」は、私たちに色んなことを期待させます。重い皮膚病にかかった人が、イエス様に「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と告白したら、彼の病気が癒やされたように、私も、「イエス様は、自分を清くすることがおできになる」と告白したら、病気を癒してもらえるだろうか?
 
体の麻痺した友人を、イエス様に癒してもらおうと、仲間たちが、家の屋根をはがしてまで運び込んだときのように、私の大切な友人も、イエス様へ必死にお願いしたら、不自由な体を、善くしてもらえるだろうか? 「癒やされる」と信じたら、「神様はおできになる」と告白したら、誰にも治せなかった、怪我や病や障害も、綺麗に治していただける。
 
そういう期待を持ちながら、私たちは聖書を開き、賛美をささげ、教会へ集まって祈りを合わせます。「この痛みを取り去ってください」「この苦しみをなくしてください」「この身を自由にしてください」「この人を、あの人を、回復させてください」……あの日、あの時、イエス様が行ったように……。
 
けれども、どんなに祈りを合わせても、回復の兆しが見えないとき、改善する様子が見られないとき、私たちは不安になります。もしかして、私がどんなに祈ろうが、どんなに祈ってもらおうが、現実に、病気が癒やされることはないんだろうか? 私の祈り方が悪いんだろうか? 信じる気持ちが足りないんだろうか?
 
それとも、「祈ったら病気が治る」とか「信じたら障害が治る」とか、そういうこと自体期待してはいけないんだろうか? 願っても仕方ないんだろうか? 治らなければ、善くならなければ、「御心じゃなかった」「神様は治そうと思われなかった」と受け入れて、諦めるしかないんだろうか?
 
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」……重い皮膚病にかかった人が、イエス様へそう願ったとき、彼はどんな返事を予想していたんでしょう? 
幸い、イエス様は「よろしい。清くなれ」と答えてくれますが、別の返事を想像しなかったわけではないでしょう。
 
「あなたを清くすることは、御心ではない」「神様に、あなたを清くするつもりはない」一番恐れる返答が、頭の隅に浮かんできます。彼と違って、現代を生きる私たちは、イエス様と直接言葉を交わすことはできないので、このようにストレートに返ってくることはありません。でも、願いが聞かれなければ、何も変わらなければ、「御心じゃなかった」「神様に私を癒す意志はなかった」と思うようになるでしょう。
 
つまり、私の願いどおりになることは、赦されなかった……と。そのように願う資格がなかったのか、そのように願うこと自体が間違っていたのか、分からない。だけど、たぶん、そういうことだろう。私は神様から、病気が治ることを、清くなることを、赦されていないんだろう。それを求めても仕方がないんだろう。
 
ところが、聖書には、「病気を癒してほしい」「不自由な体を治してほしい」とイエス様に訴えて、その願いを聞いてもらった多くの人が出てきます。人々へ「そのように願ってはならない」とイエス様が戒めたり、神様が禁じたりすることもありません。あなたが、自分自身や大切な人の回復を願うことは、決して、赦されていないことではありません。
 
子どもができるよう願い続けても子どもができず、年老いてしまった人。12年間、祈り続けても病気が治らず、出血が止まらなかった人。38年間、自由になりたいと願っても体が動かず、誰にも治してもらえなかった人……本人も、周りからも、「自分が癒やされることは御心じゃなかったんだ」と感じている人たちに、イエス様は語ってきました。
 
「あなたの信仰が、あなたを救った」「あなたの願いどおりになるように」……あなたが今日まで癒されなかったのは、神様が、あなたを癒す意志を持っていなかったからではない。神様に、あなたを清くする意志がなかったからではない。あなたがそう願うことを、あなたの願いどおりになることを、神様が赦していないからではない。
 
今日、神の業がこの人に現れるためである。今、この時、あなたを救うためである。今日まで癒されなかったのは、今日まで赦されなかったからではない。神様は、あなたの罪を赦される。神様は、あなたを清くされる。あなたは汚れた人ではない。あなたの信仰は欠けてない。
 
同時に、神様に願ったら、必ずその通りになるわけではないことも、聖書は包み隠さず記しています。晩年、病が癒やされず、一箇所に留まって、手紙を書き続けることになった宣教者パウロも、十字架につけられることを恐れ、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と願ったイエス様も、その願いは聞かれませんでした。
 
しかし、そのとき願った以上のことが、神様によってもたらされます。癒されなかった棘のゆえに、あちこちへ手紙を送ったパウロの言葉は、彼の期待をはるかに超えて多くの人へ、何世代も伝えられていきます。取り除けてもらえなかった十字架のゆえに、殺されてしまったイエス様は、3日目に復活し、弟子たちみんなと再会します。
 
私の願ったとおりにならなかったら、神様の御心じゃなかったら、それは間違った思いなんだ、赦されてないことなんだ……そういうふうに、すぐ下を向く私たちに、神様は、「そうじゃないよ」と語ります。あなたの願いを「聞くつもりはない」と切り捨てることも、「その信仰では足りてない」と打ち捨てることもありません。
 
イエス様は、多くの病人を癒しましたが、その目的は、彼らに「罪の赦し」がもたらされたことを人々に示すためでした。重い皮膚病が癒やされた人にも、イエス様はまず「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と命じました。それは、その人の罪が赦され、神に清められたことを、みんなに認識してもらうためでした。
 
イエス様に多くの悪霊を追い出してもらい、一緒についていきたいと願った人も「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられます。それは、神様に赦されていないと思われている人が、神様に赦され、清められていることを、最も近しい人たちに認識してもらうためでした。
 
多くの人は、怪我や病気や障害を負って、それらが癒やされない状態を見ると、何か悪いことをしたから、神様に赦されていないから、この状態が続くんじゃないか? と感じてしまいます。自分が癒やされないのは、神様に赦されないほど酷い人間だから、善く思われていないからと、心をすり減らせてしまいます。
 
しかし、イエス様があなたに伝えたいのは、神様があなたを赦されていること、あなたを清められたことです。イエス様がたくさんの人を癒してきたのは、「赦されていない」「赦されることはない」と思われてきた一人一人に、赦しをもたらされたことが、信じられるようになるためです。
 
イエス様は、体の麻痺した人を前にして、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか? と聞かれました。普通、体の麻痺した人間を癒すことほど難しいことは、そうないように感じられます。しかし、イエス様はそれ以上に難しいことをするために来たんだと言うんです。
 
「あなたの罪は赦された」それを伝えるために来たんだ。イエス様は、一人一人に、神様が赦しをもたらされたことを示すために、歩けなかった人を起き上がらせ、見えなかった人の目を開き、重い皮膚病の人を清くされました。この人たちは赦されているとみんなに宣言されました。あなたにも、神の赦しがもたらされています。あなたが赦されていることを、あなたの隣人に、あなたの家の人に、知らせる出来事がもたらされます。
 
もしも今日、自分の願いが「御心じゃなかった」と感じていて、「神様に自分を癒す意志はない」と思っているのなら、何年もそのように思わされていた人たちに、イエス様が語った言葉を思い出してください。「人よ、あなたの罪は赦された」「あなたの信仰が、あなたを救った」「あなたの願いどおりになるように」……私もそのように祈ります。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。