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それで元気になりますか?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録27:33〜44

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 使徒言行録の終わりの方には、宣教者パウロが、ローマへ連行される途中、乗り込んだ船が暴風に遭い、難破してしまった出来事が記されています。この暴風は、幾日もの間、吹き荒れて、船からは太陽も星も見えず、船体がいつ壊れてもおかしくない状態だったと言われています。

 逃げ場のない海の上で、暴風に遭う、嵐に遭うというのは、昔の人々にとって、神から裁きを受けている、神に背いてしまっている、と捉えられる出来事でした。旧約聖書の創世記には、地上に人の悪が増したとき、神様が四十日四十夜雨を降らせて、洪水で世界を一掃したことが記されています。十四日間の暴風も、この出来事を思い出させたでしょう。

 また、ヨナ書にも、神に背いて逃げ出したヨナが、海の上で嵐に遭い、転覆しかけたことが書かれていました。そこに出てくる船乗りたちの反応を見れば、異邦人にとっても、海の上の暴風は、神の怒りを彷彿とさせるものだったと分かります。ローマの兵隊と囚人を連れていく船の上で、暴風に苦しめられた人たちも、神への恐れを抱いたでしょう。

 この状況で期待されるのは、祈るなり、何なりして、激しい暴風を止めることです。ヨナが乗っていた船では、ヨナが海に投げ込まれることで暴風が止み、船員たちは生き残ることができました。また、パウロが信じる、神の子イエス・キリストは、湖の上で暴風に遭っても、風を叱りつけて、嵐を止めることができました。

 しかし、残念ながら、宣教者パウロは、この嵐を鎮めることができません。むしろ、船を失うことは避けられないと話します。そういえば、彼はこの船に乗ってから、風に行く手を阻まれたときも、クレタ島から船出して、暴風に悩まされたときも、「この暴風を止めてください」と神に祈っていませんでした。

 また、船員たちも、この嵐で命を失わないよう、船が転覆しないよう、助けを求めて、神に祈る姿がありません。ヨナ書では、異邦人の乗組員も必死になって、それぞれの信じる神に「助けてくれ」と祈っていましたが、パウロの乗った船では誰一人、救いを求めて神に祈る姿がありませんでした。

 パウロ自身は「船を失っても、命を失う人は一人もいない」と話しているので、神様は必ず自分たちを救ってくれる、という確信があったのかもしれませんが、他の人たちは違います。特に、船長や船主は、命も大事ですが、船も失うわけにいかなかったでしょう。普通は「神様、助けてください」「この暴風を止めてください」と祈るのが自然です。

 けれども、彼らは早々に、助かる望みは全く消え失せた……と考え、食事を取らなくなってしまいます。これは、聖書にしばしば登場する、悔い改めて助けを求め、断食して祈る行為ではありません。彼らが長い間、食事を取っていなかったのは、絶望と船酔いによるものです。

 他に何もできない中、祈ることさえできないほど、神に助けを求めることもできないほど、彼らは追い詰められ、元気を失っていました。しかも、十四日目には、錯乱した一部の船員が、錨を降ろすふりをして、自分たちだけ逃げ出そうと小舟を下ろし始めたので、彼らが漂流しないよう、パウロは兵士たちに綱を切らせて、小舟を放流させてしまいます。

 この小舟は、いわゆる救命ボートです。船が座礁したとき、安全に陸へ上がるためには必要不可欠な道具です。それまで失ってしまった今、助かる見込みはゼロどころか、マイナスにまで下がってしまいました。しかも、船の中には、小舟を失うきっかけとなった、自分たちだけ逃げ出そうとした船員たちも残っています。気まずい空気が漂います。

 そんな中、パウロはみんなに食事をするよう勧めます。ついさっき、船員の裏切りによって小舟を失い、最悪の空気が漂っているのに、「どうぞ何か食べてください」と言うんです。一部の人にではなく、そこにいる一同、全員に……です。さっき、小舟を降ろして逃げ出そうとした船員たちにも、パンを手渡し、「さあ、食べなさい」と言ってきます。

 「生き延びるためには必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」……気まずくて、情けなくて、消え入りたくなる人たちが、生き延びるよう促され、髪の毛一本も失わないと、力強く言われます。そんなこと言っても、自分のしたことは取り返しがつかない。もう逃げ場はなく、足元から力が抜けていく。

 パウロの言葉で、元気になる人がどれだけいたのか、最初に読んだときは疑問でした。そんなこと言ったって、神様は暴風を止めてくれないじゃないですか? ますます窮地に立たされているじゃないですか? 私たちが陸に上がることを、命が助かることを、許していないじゃないですか?

 けれども、ここで初めて、船の中で、神への祈りがささげられます。「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」それは、イエス様が十字架にかけられる前の夜、自分を見捨てる弟子たちのために、パンを分けられた仕草と一緒でした。

 また、イエス様が復活した後、自分を見捨てた弟子たちと再会し、彼らのために、再びパンを分けたときとも同じ仕草でした。パウロから、イエス様の話を聞いていた百人隊長や彼の部下たちは、パウロの言うことを聞かずに、神の意志を無視して、船を出した自分たちも、イエス様は赦し、命を与えてくださると、気がついていったのかもしれません。

 船の上で、最初にささげられた祈りは、罪の告発でも、自己否定でもなく、これから命を救ってくださる神様への信頼と感謝の祈りでした。自分の選択や行いを恥じ、希望を失っていた船員たちは、この祈りを聞いて元気を出し、パンを受け取って、力をつけます。そして、今までならあり得ない選択をする者へ変えられていきます。

 朝になると、船は浅瀬にぶつかって、乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、ついに、船尾が激しい波で壊れ出しました。もう船を捨てて、泳いで陸地を目指すしかありません。しかし、囚人たちが乗っているため、彼らを野放しにする恐れがあります。護送中の囚人を取り逃してしまった兵士や隊長は、下手すれば処刑されてしまいます。

 普通なら、囚人たちを野放しにしないよう、ここで殺してしまうのが、ローマ帝国の百人隊長や兵士たちの取りうる判断です。けれども、百人隊長はパウロを助けたいと思い、これを阻止して、囚人か、そうでないかを問わず、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや他の乗組員につかまって泳ぐように命じました。

 そんなことをすれば、途中で囚人に殺されてしまう乗組員もいるかもしれません。疑心暗鬼になって、互いに海へ落とそうとする者が出ても不思議ではありません。しかし、パウロからパンを受け取った彼らは誰一人、裏切ることも、見捨てることもなく、全員が無事に上陸することになりました。

 イエス・キリストの話を通して、パウロと百人隊長の間で芽生えた信頼関係は、一緒にパンを分けた兵隊たちと囚人たちとの間にも、乗組員全体にも広がります。こうして、267人の船員たちは、全員、命を失うことなく、逃げ出して離れ離れになることなく、陸地へ上がることができました。

 「助けてください」「救ってください」そう願うことさえできなくなった人たちにも、悔い改めや罪の告白をできないでいた人たちにも、神様は、新しい命を与えようと、パンを分け、祈りをささげ、とりなす者を遣わします。あなたもまた、その人が遣わされた所にいる者であり、あなた自身も新たに遣わされていく一人です。

 どうか、私たちが祈れないとき、私たちのためにとりなし、隣人が祈れないとき、隣人のためにとりなすよう、導いてくださる救い主が、ますます豊かに、褒め称えられますように。神様の栄光が、ますます豊かに、現されますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。