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対立していたはずの民【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書7:1〜10

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

ローマの兵隊を束ねる百人隊長が、イエス様に自分の部下を癒してもらったエピソード……神の民として選ばれたイスラエルを支配し、人々を苦しめていた、異邦人が癒やされる……本来、敵として忌み嫌われる存在が、その信仰を認められ、叶えてもらった奇跡の話……色々な衝撃が、聞き手を、読者を、襲います。
 
多くの人は、この話を、異邦人をも癒されたイエス・キリストの「寛容さ」や、ユダヤ人にも負けない百人隊長の「信仰深さ」が現れていると受け取ります。実際、イエス様は百人隊長とのやりとりを通して、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と感心します。
 
たとえ、神様から選ばれた国民を虐げる大国側の人間であっても、イエス様を信じて、心から願い出れば、その訴えを聞いてもらえる……神様から救い主として遣わされたイエス様は、異邦人であろうと、自分の国の敵であろうと、信じる者には、分け隔てなく接してくださる……そんなありがたい話として聞こえてきます。
 
ただ、よく考えてみるとこの話、単純に、イエス様と百人隊長の関係だけが描かれているわけではありません。最初に、百人隊長の部下が病気で死にかかっていることを伝え、イエス様に助けてほしいと頼みにきたのは、ユダヤ人の長老でした。一般的に、聖書に出てくるユダヤ人は、異邦人との接触を好みません。
 
ましてや、自分たちの国を支配するローマ帝国のお偉いさん、軍隊を率いる隊長のために、使いとしてやって来るって、なかなか考えにくいことでした。しかも、単なるユダヤ人ではなく、長老です。ユダヤ人の会堂と、コミュニティーを守る者として、まあまあ、保守的に描かれてきた存在が、異邦人の軍隊の隊長のために、使いとしてやって来ます。
 
それも、イエス様を頼って……です。ユダヤ人の長老といえば、議員、祭司長、律法学者と並んで、イエス様と対立することが多かった存在です。基本的には体制側……伝統的な価値観を覆してくる教えに対し、異議を唱えて反論し、自分たちが変わることを拒否する者の代表格でした。
 
そんなユダヤ人の長老が、ここでは、今までと大きく変わって、異邦人の隊長のためにイエス・キリストを頼って、熱心に願います。百人隊長の部下が病気で死にかかっています。どうか隊長の部下を助けてください。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と。
 
そう、もともと敵である人間のために、他では対立していたイエス様を頼り、頭を下げて訴えたのは、ユダヤ人の長老でした。驚くべきことです。この長老だけでなく、カファルナウムのユダヤ人たちは、ローマ帝国から派遣されている百人隊長を、皆、愛していたことが伝わってきます。
 
もちろん、百人隊長が自分たちのために、会堂を建ててくれたから、という理由はあるでしょう。しかし、現金だと言い放つことはできません。ユダヤ人にとっての会堂は、エルサレムの神殿へ毎週行けない人々が、その土地で聖書の朗読を聞き、祈りと賛美を合わせるための神聖な場所です。その建物が、長年忌み嫌っている異邦人によって建てられた。
 
単なる異邦人ではなく、現在進行形で自分たちの国を支配するローマ帝国の軍隊長が、その手で建てた会堂に、ユダヤ人が集まって、共に祈りを合わせている……よく考えたら奇跡です。「異邦人の手で作られた会堂なんかで礼拝できない」「ローマ帝国の隊長が作った建物なんて壊してしまえ」そう言い出す人がいたって、おかしくない。
 
けれども、この町のユダヤ人は、自分たちを愛して会堂を建ててくれた百人隊長の好意を受け取り、そこを自分たちの会堂として受け入れ、本来敵であるローマ市民の部下のために、祈りを合わせていたんです。さらには、エルサレムの祭司長や長老たちが対立していたイエス様に、この人の部下を癒してほしいと頼みに来ます。
 
一方、百人隊長も、占領国の人間とここまで仲良くしていることは、リスクの高いことでした。ユダヤ人の暴動を収めなければならなくなったとき、情が湧いて、鎮圧できない隊長は、当局にとって困りものです。しかも、軍隊の隊長が占領国の民族のために、宗教的な施設を作るって、下手すればローマ皇帝への不敬に思われかねません。
 
にもかかわらず、彼はこの町のユダヤ人を愛し、長老たちとも仲良くし、自ら進んで会堂を建て、おそらく礼拝もしていたのでしょう。カファルナウムのユダヤ人とローマ帝国の百人隊長は、互いにリスクを冒しながら、互いの立場や偏見を超えて、互いに愛し合っていました。
 
ふと、思い出されます。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」というイエス様の呟き……もしかしたら、この言葉は、百人隊長個人の信仰を讃えるものではなかったのかもしれません。イスラエルの中でさえ見られなかった、ユダヤ人と異邦人の、神の愛に基づく関係……それが、彼らの間に実現している。
 
面白いことに、この箇所では、イエス様が百人隊長のために、彼の部下を癒やされたという直接的な記述もありません。部下に触れて癒すシーンも、部下は治ったと告げるシーンもありません。百人隊長が願ったように、ひと言「治れ」と命じることさえありませんでした。
 
それなのに、使いに行った百人隊長の友達が戻ってみると、部下は元気になっていました。本当に、イエス様が癒したのかさえ分からない……実は、百人隊長が願ったとおり、そのままのことが起きたわけではないんです。彼は、イエス様が部下のために何か命じることを期待しましたが、イエス様が明確に行ったのは、その信仰を認めることだけでした。
 
「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」……百人隊長が部下を思いやり、ユダヤ人を思いやり、ユダヤ人が百人隊長を思いやり、その部下を思いやる。その日、ここにあった信仰は、祭儀や掟に囚われた、イスラエルの中では見られなかった、互いに愛し合う関係の中で、実を結んだものでした。
 
そう、この箇所が奇跡として強調するのは、イエス様による病の癒しというよりも、イスラエルの中では見られなかったもの……対立していたはずの民、異邦人と、ユダヤ人と、イエス様の一行が、それぞれの対立の背景を超えて、互いを思い、互いに頼り、互いを愛した出来事なんです。ここに神の愛があります。ここに神の奇跡があります。
 
どうか、この日、ここに起きた奇跡が、私たちの間にも実現しますように。自分一人で完結しない信仰が、あの人やこの人たちとの関係において、結ばれていく信仰が、豊かに実を結びますように。神よ、あなたの平和が実現し、あなたの栄光が表され、あなたのお名前が、豊かに褒め称えられますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。