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ふさわしい信仰?【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録14:8〜15

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

聖書の中には、神の子であるイエス様や、イエス様の弟子たちによって、病を癒やされた人の話が度々出てきます。今日読んだ記事にもありました。神様の教えを聞いた人が、キリストについて聞いた人が、長年苦しんでいた病気から解放される。障害が治って立ち上がる。夢のような話です。
 
けれども、ちょっと気になるフレーズも出てきます。「パウロは彼を見つめ、癒やされるのにふさわしい信仰があるのを認め」た……「癒やされるのにふさわしい信仰」……そんなものが、自分にあるのか聞かれたら、牧師の私も、思わず口籠もってしまいます。長年神様を信じているのに、癒やされてない、慢性的な病気は、私にもあるからです。
 
こういうエピソードを聞くと、「自分も神様を信じれば、イエス様を信じれば、病が治るかもしれない、障害が癒やされるかもしれない」……と希望を持てる人もいれば、「今なお病気が治らないのは、障害が悪化していくのは、癒やされるのにふさわしい信仰が、自分にはないからじゃないか?」と苦しめられる人もいます。
 
皆さんはどちらでしょうか? これから信仰が豊かにされ、癒やされるのを期待する人、病気が悪くなっていくのを見て、自分の信仰が足りないと思わされている人、どっちもいると思います。長い人生で、その間を揺れ動いてきた人もいるでしょう。一方では、癒やされる期待を持ちながら、一方では、癒やされない現実によって裁かれる。
 
残念ながら、教会によっては、信徒によっては、祈っても病が癒やされない人に対し、「あなたの信仰が足りないから」「あなたの祈りが足りないから」と悔い改めを促す者もいます。ただでさえ、苦しい思いをしているのに、必死に祈りをささげているのに、「まだ、癒やされるのにふさわしくない」と言われてしまう。
 
教会に来れば癒やされる、イエス様を信じれば病気が治る……そう聞いてやって来たのに、治らなければ、自分の信仰が足りないせいにされ、ふさわしい信仰を持たないことが罪なんだと言われてしまう。まさに、「泣きっ面に蜂」という状況が、色んな人を襲ってきました。
 
しかし、改めて振り返ってみましょう。イエス様によって、弟子たちによって、病気を癒してもらえた人たちは、どんな信仰を持っていたのか? 信仰と呼べるようなものが、目に見えてあったのか? 先ほど読んだ使徒言行録14章8節以下には、リストラという町に住んでいた足の不自由な男が出てきます。
 
彼は生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがありませんでした。おそらく、路上で施しを受けながら暮らしていたのでしょう。そこへ、イコニオンからやって来たパウロとバルナバが、町の人々にイエス様の教えと業を語っているのが聞こえてきます。男は耳を澄ませながら、パウロの話に聞き入っていました。
 
足の不自由な男について分かるのは、これだけです。彼は、たまたまそこに居ました。自分から、イエス様の話を聞くのを求めて、パウロとバルナバのもとへ訪れたわけではありません。彼は、もともと異邦人で、神の子イエス・キリストどころか、世界の創造主である父なる神も、このとき初めて聞いたはずです。
 
パウロの話を初見で聞いて理解するほど、キリスト教の下地があったわけではありません。おそらく、言っていることの大半は理解できなかったでしょう。何となく、「そういう方がいるのか」「自分も会ってみたいな」くらいしか思わなかったでしょう。一度耳にしただけで、罪の赦しや復活について、心から信じられたわけではなかったでしょう。
 
実際、足の不自由な男は、一言も、自分の口で、信仰告白をしていません。まだ、弟子たちの話を聞いても「何なのかよく分からない」「もう少しちゃんと聞いてみたい」という段階で、「私もイエス様を信じる仲間にさせてください」と自分から言い出すときではなかったと思います。
 
彼の周りの人間を見てみても、パウロたちが語ったこと、行ったことを見ただけで、すぐに、イエス様への信仰を正しく持てたわけではないことが分かります。リストラで暮らしていた人々は、ギリシャ神話に出てくるゼウスとヘルメスが、人間の姿に変わって自分たちの町へやってきたと思い、バルナバとパウロへ生贄をささげようとするからです。
 
どう見ても「ふさわしい信仰」を持つことができたとは思えないですよね?「癒やされるのにふさわしい信仰」を認められたはずの男も、不自由だった足が癒やされると、躍り上がって歩き出しますが、神への賛美も、信仰告白もありません。自分が何によって癒やされたのか、ちゃんとは理解していません。
 
思い返せば、かつてイエス様に癒やされた人々も、全員がすぐに神を賛美したわけではありませんでした。全員が、イエス様へ感謝をささげたわけではありませんでした。重い皮膚病を癒やされた人も、見えなかった目を癒やされた人も、自分を助けてくださった方へ、全員が信仰を告白できたわけではありませんでした。
 
にもかかわらず、彼らは癒やされていきました。何によって癒やされたのか、ちゃんと答えられないのに……イエス様が何者か、ちゃんと分かっていないのに……自分たちに語られた言葉を、ちゃんと理解していないのに……それでも、彼らは「癒やされるのにふさわしい信仰」を認められ、手足や皮膚を、目や口を癒やされていきました。
 
一方で、足の不自由な男のために、神様へ祈り、イエス様にとりなし、立ち上がらせた宣教者パウロは、晩年、病に侵され、外へ出られなくなりました。「癒やされるのにふさわしい信仰」があると、きっと認められているはずなのに、自由になって町を巡り歩くことは叶わず、手紙を書いて過ごしました。
 
しかし彼は、「自分の信仰がふさわしくないから、癒やされなかった」とは言いませんでした。「病に侵されているのは、信仰が足りないしるしだ」とは言いませんでした。むしろ自分が棘を受けていることを正直にみんなへ明かし、それでも、神様の愛と恵みが伝えられることを共有していきました。
 
ふさわしい信仰って何だろう?……この箇所を読むと、そう思わずにはいられません。どう見ても、癒やされて当然の信仰があったとは思えない人も癒されました。みんなから癒やされないのは何でだろう……と思われるような信心深い人が、癒やされなかったこともありました。
 
もしかしたら、私たちの目で見て分かる「癒やし」とは違う「癒し」が、今、この時、あの人に、行われているのかもしれません。私たちの頭で分かる「信仰」とは違う「信仰」の受け取り方を、神様はしているのかもしれません。神様が、一人一人の信仰を、どのように受け取って、どのように恵みをもたらされるか、私たちには分かりません。
 
ただ一つ分かるのは、自ら積極的に神の話を聞きにきたわけではない人にも、自分の口で信仰を告白する段階ではない人も、正確にイエス・キリストについて理解できてはいない人も、神様に救われる存在として、もう既に呼ばれていることです。本来なら「ふさわしい信仰がある」と認められない人も、神様によってふさわしいとされてしまうことです。
 
今まで、病が癒やされなかったのは、あなたの信仰がふさわしくないからではありません。今なお、病が癒やされないのは、あなたの信仰が足りないからではありません。たとえ、あなた自身が、自分の信仰はふさわしくないと思っていても、あなたと出会った神様は、既にあなたを、自分が救う者として呼んでいます。ふさわしい者にしています。
 
私たちは、いつ、どのように、神様があなたを癒やされるのか分かりません。パウロが期待したとおりの癒しを得られなかったように、もしかしたら、今、自分が期待する癒しとは違う癒しを経験するかもしれません。あるいは、足の不自由だった男のように、思ってもみないタイミングで、思ってもみない状況で、癒やされるかもしれません。
 
正直に、私は、誰が、いつ、どのように、神様から癒しをもたらされるのか、分からないことを告白します。同時に、神様は、もう既に、あなたの願いを聞いていて、あなたの信仰を受け取っていて、癒しの御手を伸ばされていることを信じます。どうか今、あなたの願いどおりになりますように。あなたを愛する神様が、あなたとあなたの大切な人を、回復してくださいますように。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。