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暴風に襲われると言えば【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録27:13〜32

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 神様から、ローマでキリスト教を宣べ伝えるよう命じられたパウロは、紆余曲折あって被告という身分で皇帝のもとへ出頭することになりました。ところが、パウロの乗った船は激しい向かい風に遭い、ほとんど進まなくなってしまいます。パウロがローマへ行くことを神様は求めているはずなのに、なぜか、自然に邪魔されます。

 さらに、何とかクレタ島についたパウロたちは、そこが冬を越すのに適していない島だと分かります。加えて、9月中旬から翌年の3月にかけて海は非常に荒れるため、航海に出るのも危険な時期でした。留まっても地獄、進んでも地獄という厄介な状況です。しかし、船長や船主は、この島で冬を過ごすより、次の港を目指す方が良いと判断しました。

 一方パウロは、このまま航海に出れば、積み荷や船体ばかりでなく、自分たち自身も危険な目に遭い、多大な損失をもたらされると警告します。一刻も早く、ローマへ行きたいはずのパウロが「一旦ストップしよう」と言うんです。神様がローマへ行くことを求めているのに、突き進まずに、立ち止まることを提案します。

 いやいや、パウロさん……あなた自分で「神様がローマへ行くことを命じた」って言ってたじゃないですか? ローマへ着くまでの航海を、神様が守ってくださるんじゃないんですか? 信じているなら、そのまま突き進めばいいじゃないですか? 神様を信じているのに、難破を恐れているんですか?

 そんなふうに、皮肉に思った船員も居たかもしれません。結局、大多数の者は、パウロの意見ではなく、船長や船主の意見に従い、船を出発させることになりました。幸い、南風が静かに吹き始めたので、今度は追い風となって、船は順調に滑り出します。人々は望みどおりに事が運ぶと考えました。

 ところが、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、船を襲うようになりました。北東からの風に、船は逆らって進むことができず、流されるに任せるしかありません。何とか、カウダという小島の影に流れつきますが、浅瀬に乗り上げないよう、綱と錨で固定するのがやっとです。

 けれども、暴風は止む気配がなく、このままでは船が座礁し、船体が破壊されると思った乗組員は、必死になって積み荷を海に投げ捨てます。船を少しでも軽くして、海底の岩や珊瑚で船底が削れないように努めたんでしょう。しかし、幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、人々は助かる希望を失ってしまいました。

 こんなふうに、暴風に襲われると言えば、思い出される聖書の話がありました。それは旧約聖書に出てくるヨナと神様の話です。ヨナは、神様に命じられ、ニネベの街へ行くはずでしたが、彼はそれに逆らって、反対方向の船に乗ります。ところが、その船は暴風に襲われて転覆しそうになり、ヨナが海に投げ込まれるまで荒れ続け、船乗りたちを苦しめます。

 これまで、パウロの話を聞いてきたローマの総督や役人の中には、この道に詳しい者、ユダヤ人の信じている旧約聖書や掟について、よく知っている者が登場しました。パウロを親切に扱った百人隊長ユリウスや、同行していた船員の中にも、旧約聖書の話を知っていて、ヨナの乗った船が転覆しかけたエピソードを思い出した人がいるかもしれません。

 そうでなくても、自分たちが航海に出て、港を離れた瞬間、暴風に襲われた状況を見れば、自然を支配する神様に、大いなる存在に、何か、怒りを買ってしまったんじゃないか……と不安になるのは、不自然じゃありません。この船の中の誰かに、神様が怒りを向けているとすれば、ヨナのように、その人も海に投げ込まれなければならないのか?

 船員たちの間に緊張が走ります。誰が、報いを受けるべきなのか、考え始めます。そもそも、この船が、風で悩まされるようになったのは、囚人たちと一緒に、パウロが乗せられてからでした。パウロがローマへ出頭するために、この船に乗りさえしなければ、暴風に襲われることもなかったんじゃないか?

 あるいは、クレタ島から出発するとき、彼だけ置いてくれば、安全に渡航できたんじゃないか? もしそうなら、今ここで、ヨナが海に投げ込まれたときのように、パウロを海に投げ込めば、神の怒りも収まって、激しい風も止むのではないか?……一方で、もっと怖い考えもありました。

 それは、クレタ島から船出することに賛成した自分たちこそ、神の意志に反しており、神の怒りを買ってしまい、罰を受けている張本人なんじゃないか?……という意識です。だって、神様に宣教を命じられたというパウロが、自ら自分たちへ言っていました。このまま航海へ出れば、積み荷や船体ばかりでなく、私たち自身が危険な目に遭うと。

 彼の言うことが正しくて、彼の言うことに従っていれば、クレタ島で、無事に冬を越すことができたのだろうか? もしそうなら、彼の言うことを無視して、あの島に留まらないで、船を出した自分たちこそ、海に投げ込まれなければならないのか? そりゃ、絶望しますよね?

 もちろん、ヨナのように「わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」「わたしの手足を捕らえて、海にほうり込むがよい」と言える人間はおりません。助かる望みは全く消え失せ、人々はただ、吹き荒れる暴風に身を任せるしかありません。

 そんな中、パウロが語りかけてきます。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」

 誰かのせいでこうなって、誰かを犠牲にしなければならなくて、その誰かは私かもしれない……そう思っていた一人一人に、パウロは「安心しなさい」と呼びかけます。神様はそんなこと望んでいないから、誰一人命を取ろうとはしていないから、元気を出しなさい……と言います。

 けれども、パウロの呼びかけを聞いても、信じられない人もいました。夜のうちに、船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして、小舟を海に降ろし、乗っていこうとした者がいたんです。どう考えても、風が吹き荒れる海の中へ、小舟で出ていく方が危険に思えますが、彼らは怖かったんでしょう。

 あんなこと言われたけれど、やっぱり私が船出に賛成したせいかもしれない。私が海に投げ込まれなきゃ、風は収まらないかもしれない。あるいは、あの船の中にいる誰かが、海に投げ込まれるまで、暴風は止まらないかもしれない。いずれにしても、この船に留まっていたら、いつか破滅を迎えてしまう。誰も命を失わないなんて、嘘だ……と。

 しかし、パウロは彼らが海へ出ていく前に、百人隊長と兵士たちへ命じて綱を切らせ、小舟を放流し、乗れないようにしてしまいます。自分の言うことに逆らって、船出に賛成し、自分の言うことを信じないで、逃げ出そうとする人々が、そのまま海に漂って、命を落とすこと防ぎます。

 「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは救われない」そう言って、船が座礁したときの切り札である小舟を捨てて、彼らが離れていかないよう、働きかけました。そして実際、この船に乗っていた者たちは、一人も命を落とさないで、救われることになります。

 目的地へなかなか行けず、暴風に襲われた船体は、憐れみ深い神様の、救いを示す証の場に……乗り込んでいるローマ人への、宣教の場になっていきました……目的をなかなか達成できず、様々な困難に襲われる皆さんの道も、教会の道も、同じです。計画から外れて、違う道に流されて、今にも壊れようとしている場所が、新しい道に、見えない教会になることもあるんです。

 どうか、助かる望みを失って、呆然としている全ての人に、神様の光が照らされますように。互いに「元気を出しなさい」と励まし合うことができますように。そして、神の国の栄光が、ますます豊かに現されますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。