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伝道すると分裂する?【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録14:1〜7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「伝道すると分裂する?」

神様を信じる人が、家庭で、職場で、学校で、周りの人を伝道しようとして、上手くいかなかったとき、かえって危険な目に遭ったとき、多くの場合、「試練」や「迫害」という言葉が頭の中に浮かんできます。一生懸命、伝道しようとしたけれど、理解してもらえなかった、拒絶されてしまった、悪意を抱かれてしまった……。
 
このまま誰にも理解してもらえないのか? 同じ信仰を共有することはできないのか? 私のやり方が間違っているのか?……そんなふうに落ち込むとき、イエス様の弟子たちが同じように迫害を受け、悪意を抱かれ、困難な目に遭ったことを聞き、自分も頑張ろうと励まされる信徒もいるでしょう。
 
一方で、ちょっとドキッとするのは、一生懸命、伝道した結果、家族が、仲間が、友人が、「理解してくれる者」と「理解してくれない者」に分裂してしまう……「受け入れる者」と「受け入れない者」に分かれてしまう……ということを、正当化しているように見えることです。
 
伝道したら、周りの者が「敵」と「味方」に分かれてしまう。自分と同じ側につく者とそうでない者に分裂し、家族関係や友人関係が壊れてしまう。けれども、伝道とは、そういうもので、そうなって仕方のないもので、むしろ、こういった困難にぶつかることは、正しい信仰を持っている証である……そういうふうに、捉えてしまっていいものか?
 
けっこう悩みどころです。というのも、こういった聖書のエピソードは、教会で伝道を奨励するとき、家族や友人を礼拝へ誘ってみるよう促すとき、信徒を励ます目的で、度々読まれてきたからです。身に覚えがある人もいるでしょう。家族を礼拝へ誘おうとして、喧嘩になってしまったり、拒絶されてしまったりした。
 
友人に聖書の話をして、警戒されてしまったり、関係が悪化してしまったりした。けれども、それは、あちこちで伝道していたパウロやバルナバも同じだった。彼らが伝道した町も分裂し、ユダヤ人の側につく者と、使徒の側につく者へ分かれてしまった。しかし、弟子たちは負けないで語り続け、多くの人が従うようになっていった。
 
確かに、励まされる話です。今は理解してもらえなくても、いつか多くの人が信じてくれるようになると、がんばって伝道していく原動力になるかもしれません。しかし、同様のエピソードを用いて、伝道に励むカルトもあります。家族が反対しようと、友人が拒絶しようと、負けないで伝道を続けるよう、メンバーを鼓舞するカルトもあります。
 
去年の7月に、いわゆる「宗教二世」によって、銃撃事件が起こされてから、既存のキリスト教会も、改めて自らに問いかける機会が増えました。私たちの伝道は、カルトとどう違うのだろうか? カルトの伝道が批判されるとき、私たちの伝道は批判されずに済むのだろうか? 
 
実際、初代教会の伝道の過程で起こったことは、カルトにおける伝道の過程で見られることと、よく似ています。そこで伝道することを反対され、悪意を抱かれ、伝道した先々で人々が分裂していく……信じない者たちから、出ていくように迫られても、メンバーは長くそこにとどまり、あちこちに仲間を増やしていく。
 
カルトの場合は、その際に起こる迫害を「正しい信仰の証」として受け取ります。これらの悪意や批判は、本当の神を信じているからこそ、本当の神を伝えているからこそ、悪魔から攻撃に遭い、サタンから反対を受けているんだと説明します。困ったことに、それは聖書を読んでいても、度々出てくる説明です。
 
しかし、カルトの伝道と初代教会の伝道には、大きな違いがあります。それは、人々が分裂した理由です。パウロとバルナバが伝道する町で反対を受け、悪意を抱かれ、人々が分裂していったのは「何を信じているか」の違いが理由でした。イエス・キリストを神の子として受け入れるか、受け入れないかで分裂していました。
 
一方で、私たちが今、「カルト」と呼んでいる団体が批判され、反対されているのは、「何を信じているか」ではなく「何を行っているか」が問題とされています。カルトが人々に分裂をもたらすのは、信じる内容がおかしいからというよりも、正体や目的を隠した勧誘や、信者を家族から引き離して、都合良くコントロールするからです。
 
パウロとバルナバは、信じようとしない者たちをむりやり改宗させようとしたり、正体や目的を隠して信じさせようとはしませんでした。むしろ、正面から、自分たちが何を信じているかを伝え、聞いた人が、自分の意志で「信じるか」「信じないか」を決心できるようにしていました。
 
反対する人たちを強制的に連れて行ったり、暴力を振るったりしませんでした。自分たちが石を投げつけられ、追い出されても、仲間に報復させようとはしませんでした。むしろ、近くの町へ行って、そこでもイエス様のことを語りました。自分たちに反対した人たちが、後から来る誰かによって、イエス様と出会うことを期待しながら。
 
今、私たちが誰かと信仰を共有しようとするときも、おそらく分裂は起こるでしょう。理解してもらえなかったり、拒絶されることがあるでしょう。しかし、それは、家族の関係や友人関係が壊れることを厭わないで、伝道しなさいという話ではありません。その人を信じさせるために、正体を隠したり、目的を偽ったりしないで、正面から誠実に伝えることが促されているんです。
 
私の言葉で信じてもらうことができなくても、イエス様は必ず、この人を信仰へと導いてくださる。その信頼を捨てないで、誤った方法を使わないで、みんなで伝道していくことが、教会の誠実な姿勢です。もう一度そのことを思い出しながら、弟子たちの歩みを振り返りたいと思います。


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。