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信仰の戦い?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 イザヤ書40:12〜17、テモテへの手紙一6:11〜16

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 信仰の戦いって何でしょう? おそらく、皆さんの頭にパッと思い浮かぶのは、迫害を耐え忍ぶことでしょう。信じたものを否定される、信仰を捨てろと強要される、あるいは伝道を妨げられるとき、負けずに信仰を持ち続ける、みんなへ神様を伝えていく……その過程で、村八分にされた人間や、殉教に至った人もいました。

 もちろん、現在の日本では、キリスト教を信じているという理由で、捕まえられたり、左遷されたり、拷問されたりすることは、ほとんどありません。信教の自由が保障され、何を信じて、何を信じないかが尊重されるようになりました。しかし、信仰を保つために教会へ行こうとすると、礼拝を続けようとすると、色んな衝突が起きますよね?

 「お前、教会なんか行っているの?」「また礼拝に出かけるの?」「君はそんなものにすがっているのか」……あからさまに言う人は少なくなりましたが、それでも、身内から、同僚から、友人から、否定的な態度を取られることは、今でも珍しくありません。また、教会に行くことは反対されないけれど、申し訳なさが募ってくることもよくあります。

 家族の中で、自分だけが信者だから、日曜日、いつも家族を置いてきてしまう……礼拝へ出席するために、毎回、仕事を変わってもらう人がいる……友人と予定を立てるとき、自分のせいで、なかなか日程が決まらない……家族との、同僚との、友人との関係を大切にするため、ときには教会を休んだり、日曜日の時間を割くこともあるでしょう。

 そんなとき、「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」と聞かされたら、思わず、胸の内が苦しくなります。日曜日、家族を優先した私は、神様を蔑ろにしたことになるだろうか? 同僚を思い遣った私は、神様よりも人間を優先したことになるだろうか? 神様との関係を保つためには、友人との関係を諦めなければならないだろうか?

 信仰の戦い……これって厄介な言葉です。戦う相手は誰なんでしょう? 神に従う者が戦わなければならないのは誰なんでしょう? 大切な家族か? 大事な同僚か? 貴重な友人か? キリスト教に理解がなければ、同じ信仰を持てなければ、彼らのために、彼らと一緒に、日曜日の時間を割くことは、信仰の戦いを放棄したことになるんだろうか?

 礼拝を第一にすること……それが、信仰の戦いを立派に戦い抜くことと信じ、家族が熱を出しても、子どもが小さくても、周りとの関係が壊れても、心に蓋をして、教会へ行き続けた結果、「宗教二世」問題が生まれてきます。そのとき、子どもや家族に証しされるのは、愛と慈しみに満ちた神ではなく、自分たちを蔑ろにさせる神でしょう。

 どんなことがあっても、日曜日は教会へ行きなさい、友達の誘いは断りなさい、信じなければ同じ家族と認めない……信仰を継承するために取った態度が、かえって、子どもの意思を蔑ろにし、愛というより、歪んだ支配関係になってしまう。神様を証しするというより、律法の押し付けになってしまう。それは、イエス様の望んだことじゃありません。

 信仰の戦いとは、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めることと一体です。家族を犠牲にし続ける、同僚を顧みずにいる、友人を切り捨ててしまう……それらの先にあるのは、信仰の戦いを立派に戦い抜いた姿でしょうか? それとも、律法主義に陥って、信仰の道から外れてしまった姿でしょうか?

 あなたが、礼拝を第一にするとき、どこが礼拝の場となるか、見えているでしょうか? いつもと同じ建物で、いつもと同じ人たちと、集まっている場所だけが、礼拝の場ではありません。あなたが、神様から受け取った愛を分けるとき、イエス様から受け取った恵みを分けるとき、そこが、キリストを証しする、礼拝の場にもなるんです。

 信仰の戦いとは、イエス様がどんな生き方をしてきたか、どんなに私たちを愛しているか、あなたの生き方を通して、みんなに示していくことです。何の迷いもなく、葛藤もなく、掟を守らせることが、信仰の道ではありません。イエス様は、安息日に、掟を破って病人を癒し、罪人と呼ばれる者と食事をし、神殿で両替人の台をひっくり返しました。

 それは「律法を遵守することで救われる」と考えていた人にとって、不信仰なことでした。しかし、イエス様は、傷つけられ、追いやられ、蔑ろにされた者たちと共に生きていく中で、信仰の戦いを立派に戦い抜く姿を示しました。あなたが家族を犠牲にしないため、隣人を蔑ろにしないため、共に時間を割くことは、イエス様が歩んできた道と重なります。

 信仰の戦いとは、ただ、信仰的に見えるように振る舞うことではありません。もし、イエス様が、周りから信仰的だと評価されるように振る舞おうとしていたら、汚れているとみなされた病人に触れることはなかったでしょう。異邦人や徴税人と食事をすることもなかったでしょう。安息日にたくさんの人を助けることはなかったでしょう。

 「あの人は神を冒涜している」「神から与えられた掟を破っている」「弟子たちにも、きちんと掟を守らせていない」そのように後ろ指を刺され、会堂から追い出され、同じ神様を信じているはずのユダヤ人から、度々、非難を受けました。イエス様が戦っている相手は、イエス様が大切にしようとしている人が見えない、会堂の中の人たちでもありました。

 実は、信仰の戦いにおいて、私たちが衝突するのは、教会の外にいる人だけに限りません。むしろ、教会の中にいる人と、何度もぶつかることになります。外にいる人を招くために、蔑ろにしないために、中にいる人から「不信仰だ」「不従順だ」と言われる人もいるでしょう。

 忍耐を持って、柔和な態度で、丁寧に神様を伝えていこうとする様子が、「伝道熱心でない」「やる気がない」とみなされることもあるでしょう。でも、信仰の戦いって、そんなに分かりやすく、戦っているように見えないものなんです。イエス様が、軍馬ではなく小ロバに乗って、エルサレムへ入城したように、私たちの戦いは、戦いに見えません。

 信仰の戦いを立派に戦い抜く姿とは、その時代、誰から見ても、信仰的に見えるわけでも、かっこよく見えるわけでもありません。イエス様の戦いが、ポンティオ・ピラトの前で裸にされ、十字架につけられ、敗北して終わったようにしか見えなかったように、現代の信仰の戦いを戦い抜く人も、勝ったようには、見えてこないかもしれません。

 私たちが信仰を告白し、洗礼を受けるときだって、全身を水に浸けるか、頭から水を被って、ぐっしょりと濡れた姿で出てきます。そんなにかっこよくはありません。立派な姿には見えません。しかし、テモテへの手紙を書いた著者は、こう言います。「あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」

 あのときの強く見えない自分の姿が、立派に信仰を表明し、今も、信仰の戦いを立派に戦い抜く最中だと、神の霊が、聖書を通して、あなたに励まし続けます。手紙の著者、あるいは、著者の教師であった使徒パウロも、もともとは、誤った信仰でキリスト教を迫害し、目を見えなくされ、情けなく引いてこられた人間でした。

 その彼が、信仰の戦いを立派に戦い抜く者へ変えられていったことを、私たちは知らされています。何度も投獄され、ローマで軟禁状態になり、晩年は病のために、教会へ行くこともままならなかったあのパウロが、多くの手紙を残し、その弟子たちが、さらに多くの手紙を書いて、信仰の群れが養われてきました。

 はたから見れば、宣教者のくせに、教会へ行けなくなっていった、家の中から出られなくなったパウロの姿は、信仰的に「勝った」ようには見えなかったかもしれません。むしろ、「負けた」ように見えてしまったかもしれません。だって、結局彼は病気に勝てず、最後まで、礼拝に集まることはできなかったわけですから。

 しかし、これが負けには見えないのが、ここに勝利を見られるのが、信仰を与えられた共同体の姿です。確かに、信仰の戦いを立派に戦い抜いた人の姿がここにあります。それは、まさに今、私たちの教会に、来ることができなくなっている、長い間、顔を見れていない人たちも同じです。

 病だけではありません。様々な事情で、ここに集まれない人も、信仰の戦いを、戦い抜いている最中です。正義を、信心を、信仰を、愛を、忍耐を、柔和を追い求め、心がつながっている人たちです。私たちの仲間が、ここに顔を出せたとき、祈りの家に帰ってきたとき、共に労い合いましょう。神の国の栄光を共に受けられますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。