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これから一人になるけれど【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書16:25〜33、ローマの信徒への手紙8:31〜39

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」……神の子イエス・キリストが、弟子たちに見捨てられる前、言い残した言葉がありました。わたしをひとりきりにする時が来る。わたしを置いていき、自分の家に帰って、閉じこもってしまう時が来る。

 それは、「あなたはわたしを裏切るだろう」「わたしを見捨てて逃げるだろう」「最後までついてくることはできないだろう」という失望に取れる言葉でした。あなたには期待できない、信じられない、まもなく離れてしまうのだ……という非難のようにも思えます。でも、この言葉は明らかに、弟子たちを責めるために言われたものではありません。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」「勇気を出しなさい」これから自分を裏切る人に、自分を見捨てて逃げる人に、吐き捨てる言葉として聞くには、あまりに場違いな言葉です。イエス様は、自分を一人にしてしまう弟子たちへ、希望と励ましを与えるために、最後のメッセージを語りました。

 不思議です。最後まで、自分に味方してくれない、自分を見捨てて離れる人へ「わたしはあなたの味方だよ」とメッセージを残すんです。しかも、一方的に「あなたがわたしを信じなくても、わたしはあなたを信じている」というメッセージじゃありません。「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたから」と仰います。

 本当でしょうか? 弟子たちはイエス様が神のもとから出て来たと信じていたんでしょうか? 本当にそう信じていたなら、どうして敵を恐れ、逃げ出してしまうことになったんでしょう? 本当にそう信じていたなら、どうして「死んでから3日目に復活する」という言葉を信じないで、家に帰って閉じこもってしまったんでしょう?

 さらに、イエス様から「今、世を去って、父のもとに行く」と言われた弟子たちは、不安に思う様子もなく、平然と言い放ちました。「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」……まもなくわたしはこの世を去る、と言われているのに、全然心配していません。

 本当に分かっていたんでしょうか? イエス様がこのあと世を去って、自分たちがついていけない場所へ行く、死という隔たりの向こうへ行くと、分かっていたんでしょうか? 分かっていたなら、もっと慌てる気がします。「先生、わたしたちを置いていかないでください」「この世を去るなんて言わないでください」「そんなことあってはなりません」と。

 実際、他の福音書では、イエス様がこの世を去る……十字架にかけられて、3日目に復活すると聞かされたとき、弟子たちは戸惑い、恐れ、悲しむ様子を見せていました。あるいは、本気にしないで「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と大口を叩く弟子もいました。

 実のところ、「本当にそんなことは起きないだろう」と思っていたかもしれません。この方が、敵の命を取るためでなく、全ての人を救うために、自分の命を献げるなんて、考えられなかったかもしれません。弟子たちが信じていたのは、死を覚悟して、敵を倒そうとする王であって、敵さえ自分の命で救おうとする王ではなかったかもしれません。

 それなのに、イエス様は彼らに対し、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたから」父ご自身も、神ご自身も、あなたがたを愛していると言いました。どう見ても、弟子たちは分かっていないのに……この後どうなるか、どうすればいいのか、分かっていないのに。

 さらに、弟子たちが「今、分かりました」「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と答えると、イエス様はこう言います。「今ようやく、信じるようになったのか」……そして、冒頭で話したように、彼らが自分をひとりきりにしてしまうこと、自分を見捨てて、散り散りになって逃げていくことを語ります。

 ほら、分かっていなかったじゃないですか? 「今ようやく」というなら、この時まで彼らは信じられていなかった、ということですよね? さらに、この後もイエス様を見捨て、敵を恐れて逃げ出すのなら、やっぱり、イエス様が神のもとから来た方だと、恐れずについていけば言い方だと、分かっていなかったということですよね?

 にもかかわらず、イエス様は最初から、弟子たちが自分を愛し、自分のことを信じているから、父なる神もあなたがたを愛していると語ります。自分を信じ切れずに逃亡するのに、ひとりきりにして離れていくのに、彼らのために希望と励ましを語ります。あなたたちはわたしを一人にするけど、わたしのことを愛している。わたしのことを信じている。

 わたしはひとりきりにされるけど、父なる神が、共に居てくださる。わたしをひとりにしない神が、あなたたちのことも愛している。だから、元気を出しなさい。あなたたちに苦難があっても、それは、神様があなたたちを捨てたからではない。あなたたちに不幸があっても、それは、あなたがひとりにされたからではない。

 わたしがあなたと共にいる。わたしは既に世に勝っている。イエス様は、自分を見捨てて離れる弟子へ、そのようにおっしゃいました。それは、理解できていない者、信じ切れていない者さえ、自分から引き離されることはない、という宣言でした。たとえ、わたしを捨てて、信仰を失ったように思えても、わたしはあなたと共にいる……と。

 ローマの信徒への手紙には、こんな言葉がありました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」この言葉は真実です。だれも、イエス様の愛から引き離すことはできません。実際、弟子たちは、イエス様を捨ててしまったにもかかわらず、イエス様とつながり続けることができました。離れたままにされませんでした。

 イエス様の方から、死を超えて、復活して、会いに来てくださったからです。自分が復活したことを信じられない弟子たちに、自ら姿を現してくださったからです。信じない者には信じられるまで、理解できない者には理解できるまで、付き合い続けてくださるからです。この方自身が、あなたへの期待を、信頼を捨てません。

 「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」……そのとおりになりました。そのとおりになるまで、神様は私たちに出会い続け、呼びかけ続け、誰にも引き離されないよう、守り続けます。閉じこもる一人一人の前に現れ、新たな力をもたらします。

 神様は、あなたに失望されません。あなたと一緒に喜べる日を、誰よりも信じて、招き続けます。私たちが期待さえできない変化を、この方は実現させてしまいます。どうか、不安を抱え、恐れを抱き、自信を失っている一人一人に、良い知らせが届きますように。神のもとから来られた聖霊が、豊かに注がれますように。アーメン。


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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。