見出し画像

苦難を受けさせる"霊"【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録20:17〜24

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

自分がこれから行くところで、どんなことがその身に起こるか分からない。ただ、投獄と苦難とが待ち受けていることだけは、はっきりしている……もし、私がそう言って、華陽教会を発とうとしたら、教会員の方々は、「先生、ちょっと待ってください」「どういうことですか?」「何をするつもりですか?」と間違いなく止めに入るでしょう。
 
「止めないでほしい、これは聖霊によって告げられたことだから、私は行かなきゃならない」と訴えても「いやいや、これから死にに行くように聞こえます。早まらないでください」と答える人が大半だと思います。何か熱でも出したのか、幻覚や幻聴があったのかとにかくほっとけないと思うでしょう。
 
聖霊によって、これから起こること、自分の為すべきことを告げられる、ということがもう少し身近に感じた時代でも、教会の教師がこんな話をし出したら、みんな慌てて止めたでしょう。誰が聞いても、遺言です。危険な目に遭うと分かって、死を覚悟して、出発しようとする人の言葉です。今止めなかったら、死んでしまうかもしれない。
 
宣教者パウロが、エフェソの教会の人たちへ直接別れを告げないまま、エルサレムへ出発したのは、エフェソへ寄ったら、間違いなく、自分が行くのを止められると思ったからでしょう。彼は、わざわざミレトスまで離れてから、教会の長老たちを呼び寄せて、会衆へ残す言葉を告げています。いわゆる告別説教、遺言のメッセージです。
 
普通は、「心配しなくていい」「神様が私を守ってくれる」「危険な目に遭わないよう聖霊が助けてくれる」と、みんなを励ますところですが、パウロは反対に「どんなことがこの身に起こるか分からない」「ただ、投獄と苦難とが待ち受けていることだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げている」と不安になることを語ります。
 
神様が送る聖霊は、パウロが投獄されないよう導いてくれないのか? 苦難を避けられるよう守ってくれないのか? 当然の疑問が湧いてきます。本来なら、聖霊に対する不信感が募らないよう「あの時も、この時も、聖霊は私を守ってくれました」……と語るべきところ、パウロはむしろ、苦難に遭わされた、数々の出来事を思い出させます。
 
エフェソにやって来た当初から、自分を取るに足らない者だと思わされる日が続いたこと。涙を流し続けてきたこと。ユダヤ人に襲われて、数々の陰謀に巻き込まれたこと。多くの試練に遭ってきたこと。ちょっと前に、アルテミスの女神を信じる地元民からも反感を受け、暴動になった事件もありました。確かに、今までも、苦難に直面してきました。
 
教会では、毎週、救い主イエス・キリストから教えられた『主の祈り』で、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りますが、実際には「試み」「試練」に遭わされた信仰者は多数います。どうやら、父なる神と、子なるイエス様が、送ってくださる聖霊は、私たちを度々、苦難に遭わせる“霊”みたいです。
 
こんなこと言ったら、聖霊に対するネガティブキャンペーンと思われるかもしれません。しかし、別名「聖霊言行録」とも呼ばれる「使徒言行録」には、聖霊によって、大変な道のりを歩まされた人たちが赤裸々に記されています。聖霊を受けた弟子たちは、行く先々で反発に遭いました。けっこう何度も殺されかけました。
 
ペンテコステに、聖霊を受けて始まったエルサレムの教会も、ステファノの殉教を機に迫害が激しくなっていきます。聖霊によって、教会は破壊を免れるどころか、使徒たち以外の信徒は、みんな外国へ逃げてしまいます。聖霊によって、生き残った信徒が団結して困難を乗り越えるかと思いきや、元迫害者が仲間に加えられ、内部分裂が起きかけます。
 
聖霊によって、復活したイエス様の幻と出会ったパウロは、キリストの霊からこのように予告されています。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」……聖霊によって、力や、勇気や、平安がもたらされるだけならいいものの、行きたくない所へ行かされ、葛藤を余儀なくされ、苦しみを受ける現実がある。
 
皆さんは、「聖霊によって導かれた」と言われたら、「成功」や「安全」や「成長」をイメージするかもしれません。「解決」や「解放」や「覚醒」をイメージするかもしれません。反対に「これだ」と思った道が上手くいかなかったら、「挫折」や「問題」が積み重なれば「御心じゃなかった」と呟きます。
 
しかし、聖霊によって導かれた弟子たちは、成功せずに失敗し、安全が保たれずに危険な目に遭い、成長するどころか散り散りにされる経験もしています。預言者も人々を悔い改めさせるという使命に挫折し、弟子たちが手紙を送った教会は、いくつもの問題が積み重なります。
 
最終的には助けられ、報われるならいいですが、ご存知のとおり、命を守られず、死んでしまう殉教者もたくさんいました。人の死が絡むと、私たちはそれを「御心じゃなかった」とは、さずかに言えませんが、死に至らない程度に、道を閉ざされた経験であれば、「これは神様が望まない道だったんだ」と言い聞かせてしまいがちです。
 
ある場所に教会を建てようとしたけど建てられなかった、牧師になろうとしたけど続けられなかった、職場を変えようとしたけど変えられなかった、自分の考えた進路に受からなかった……そういう出来事に直面すると、度々言います。「御心じゃなかった」「自分が行こうとした道は、聖霊が示す道とは違ったんだ」と。
 
けれども、自分を取るに足らない者だと思う日が続き、涙を流し続け、伝道した町から追い出されたり、これから行こうとしている町でも、おそらく捕えられることが確定しているパウロから、はっきりとこう言われます。「わたしは“霊”に促されてエルサレムに行きます。」
 
エルサレムへ着いたら、“霊”の言うとおり投獄されたら、いつまで身動きできなくなるか分かりません。方々を歩いて伝道することができなくなるかもしれない。会衆にメッセージができなくなるかもしれない。長期間閉じ込められたまま、何もできない日々が続くかもしれない。そのまま、宣教の働きが不可能になるかもしれない。
 
それは、はたから見れば、聖霊が離れてしまった、神様から力をもらえなくなった、イエス様に助けてもらえなくなった姿です。だって、今までは、投獄されても、聖霊を受けていれば、牢が壊れたり、天使に連れ出されたり、すぐに解放されたんですから。そんな奇跡も起きなくなったら、もう自分から聖霊が去ってしまったと思いますよね?
 
でも、違うんです。牢から出られなくても、病が治らなくても、力が出せず、取るに足らない者のままでも、“霊”に促されて、パウロはエルサレムで過ごしたんです。自分の身に起こる苦しみを、聖霊が離れたしるしではなく、聖霊が共に居てくれるしるしとして受けとめたんです。
 
なぜなら、彼を大きく変えたイエス様も、聖霊によって、エルサレムに導かれ、捕えられ、鞭打たれた末、十字架につけられたからです。人々の応援を受けるどころか、嘲りを受け、英雄になるどころか、罪人として処刑され、「成功」や「解決」を得た者とは、どう見ても感じられない姿で、神様の計画を成し遂げた方を見たからです。

私たちが進む先には、成功や解決に至らない、失敗や挫折を繰り返す、道を閉ざされる経験がたくさんあります。神様を信じて、イエス様に従おうとして、苦難を受けさせられることが度々あります。それは決して、あなたが聖霊を受けておらず、神様が離れてしまったからではありません。
 
神様が「これはわたしの愛する子」と言われたキリスト同様、あなたをご自分の子として、呼んでおられるからです。期待したとおりにならなくても、描いたとおりにならなくても、あなたの道が裁きで終わるわけではありません。みんなから、この人は成功せずに罪人のまま終わったと見られても、あなたが進む先で、イエス様が迎えてくださいます。
 
聖霊は私たちに、単なる成功や解決をもたらすわけではありません。私たちが期待さえしなかった、私たちの思い描く未来を越えた、神の栄光にあずからせます。その日が来るまで、今も、あなたを促す聖霊が、繰り返し、新しくイエス様に出会わせてくれる、苦難をも喜びに変えてくれる、主の道を進んでいきましょう。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。