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試す神、試される神【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書6:1〜15

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

とんでもない災いが降りかかったり、何か悪いことが起きたりすると、「もしかして今、神様に試されているんじゃないか?」と私たちはしばしば考えます。確かに、旧約聖書にも、信仰を試されたヨブの話や、アブラハムの話が出てきました。新約聖書にも、神の子であるイエス様が、弟子のフィリポを「試みる」シーンが出てきました。
 
神様は度々、私たちに試練や難問を与え、自分に従うかどうか、信仰を保つかどうか、試しておられる……そんな様子が、聖書のあちこちに見られます。これって正直、気持ちよくはありません。過ちを悔い改めるよう、悪いことを反省するよう、試練を与えられるならまだしも、自分に従うかどうか試すために、同意なく試練を与えられる。
 
それって、まじめに、誠実に、生きてきた人にとって、かなり、理不尽な出来事です。特に、病気で自由を失ったり、事故で身内を亡くしたり、災害で故郷を奪われた人たちは神様に「試されて」そうなったなら、たとえ試練をクリアしても、二度と回復できない傷を負わされたことになります。
 
神様、この責任をどのように取ると言うんですか? あなたを信じた結果、あなたに従った結果、大切なものを失った私は、どうやって回復されるんですか? 私に非がないのであれば、罰や戒めでないのなら、取り返しのつかない事故や事件を、どうして起こされたんですか? そのように叫びたくなるでしょう。
 
しかし、実際の、多くの困難は、神様に試されてそうなったのか、自分が過ちを犯したからそうなったのか、単に偶然そうなったのか、私たちが知ることはできません。もし、自分が神様に責められるような、悪いことをした覚えがないのなら、どうしてこうなったのか、納得のいく説明が欲しくなるでしょう。
 
「偶然そうなった」と言われても、受け入れられません。正しく生きていても、誠実に歩んでいても、突然、理由なく、苦難や困難が降りかかってくるなんて、言わないでほしい……普通に暮らしていたら、自分が過ちを犯さなければ、悪いことには襲われないと、保障してほしい……。
 
もし、この苦難の原因が、自分でないのなら、「誰のせいでもない」とか「仕方ない」とか言わないで、責めを負う相手を示してください……誰が、私をこうしたのか、大切なものを奪ったのか、責任を取るべき相手に、訴えさせてください……そのように叫ぶ私たちに、神様は自ら「試す者」として、表に出てこられます。
 
私たちが、どこにぶつけたらいいか分からない怒りを、嘆きを、受けとめる者として、誰も取れない責任を、ただ一人負ってくださる方として、神様が前に出てきます。「なんで私をこんな目に……」「どうしてここまで酷いことを……」次々と出てくる訴えを、余すことなく受けとめられます。
 
「人を試す神」がいたら、恐ろしいと思う一方で、私たちは、自分が理不尽な目に遭ったとき、愛する人が巻き込まれたとき、その責任を負ってくれる、ぶつかる相手がいなければ、耐えられない存在です。私たちを「試す神」は、私たちが訴える相手のいないとき「私に訴えなさい」と出てくる方でもあるんです。
 
さらに、それだけではありません。神様は、自分自身も、私たちに「試される」存在として出会われます。最初に読んだ出エジプト記には、神様が、自ら守った人たちから「試される」シーンが出てきました。なんと、神様が敵を退け、パンを与え、道を示してきた民に、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と試されてしまうんです。
 
今までも、困ったときは神様が助けてくれたのに、再び、飲み水がなくて困った人々は素直に助けを求めずに、神様を試してしまいます。「我々に水を与えよ」「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」そう言って、神様の愛を、存在を、試すんです。どうにかできなければ、神が選んだ指導者モーセを「殺す」と言って……。
 
こんなふうに煽ってしまう、怒らせるような行動をする、一杯一杯の人たちに、神様は向き合い続けます。自分を試す人たちに、自分と争う人たちに、求められた水を与え、「私はあなたたちの間にいる」と示されます。一回、二回ではありません。人々がしるしを求める度に、「本当に何とかされるんですか?」と問われる度に、答えてきました。
 
さらに、神の子イエス・キリストは、私たち人間が、信仰を「試される」ときのように悪魔から誘惑を受けられます。「お前は本当に神の子か?」「本当に、神に愛されていると信じているか?」……そんなふうに、「あれをしてみろ」「これをしてみろ」と詰め寄られます。
 
イエス様は、「あなたの神である主を試してはならない」と答えながら、一方で、神の子である自分自身が「試し」を受けて、一つ一つに応答します。圧倒的な聖なる力で、悪魔を追い払うことも、超常的な奇跡を起こして、悪魔を退けることもなく、ユダヤ人の誰もが聞いたことのある教えを口にして、淡々と耐え忍びます。
 
私たちが誘惑を受けたとき、自分自身に「それはやっちゃいけない」「神様はこう教えられた」と言い聞かせているときのように……この方は、試されることの痛みを知っています。都合の良い力で、誘惑を退けられない私たちと、同じ条件で苦しまれます。簡単に、速やかに、誘惑を追い払えない私たちと同様、40日にわたって悪魔の声に悩まされます。
 
どうして、こんなに苦しまなければならないのか、なぜ、酷い目に遭わなければならないのか、答えの出ない問いかけに、神様は付き合ってくださいます。私たちが訴えられる相手となって、受けとめてくださるだけでなく、ご自身も、理不尽に試される者となって痛みを共有してくださいます。
 
神様は、人間を好き勝手「試す」方ではなく、私たちが、苦しみを受ければ、その責任を最後まで取ろうとする方です。私たちから「試され」ても、私たちが、信じない者ではなく、信じる者となれるまで、付き合い続けてくださいます。そして、ご自身も、試される痛みを知っていて、私たちをとりなしてくださいます。
 
キリストが受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こす、受難節、第一週目を迎えました。キリストの復活を記念するイースターまで、あと5週間……イエス様が、私たちの怒りを、嘆きを、訴えを、正面から受けとめてくださることを覚え、私たち自身も、イエス様の受けた痛み、悲しみ、苦しみを、思い起こしていきましょう。
 
この方は、あなたが受けている仕打ちを共に受け、あなたと共に憤り、あなたと共に涙を流した救い主です。あなたを「罪人」と呼ぶ者から守り、あなたが囚われているところから、一緒に出ようとする方です。この方が、あなたを連れ出す日、新しく、あなたと出会われる日を待ちなさい。復活の主と出会う準備をしていきなさい。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。