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説き伏せられない【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

もし、キリスト教徒になったのが、自分じゃなくて他の人だったら、私の家族もキリスト教を信じていただろうか? 聖書の教えを信じていると話したのが、私じゃなくて他の人だったら、友人も教会へ行ってみようと思えただろうか? そんなふうに考えたことのある信徒は、一人や二人じゃないと思います。
 
私もよく思うんです。もし、牧師をしているのが自分じゃなかったら、華陽教会へ来る人たちは、もっと増えていたんじゃないか? もし、メッセージを語るのが他の人だったら、洗礼を希望する人も、もっとたくさん居たんじゃないか? だって、自分じゃ言葉に詰まること、上手く伝えられないこと、たくさんありますよね?
 
実は、知らない人たちから「教会に行ってみていいですか?」という電話が入ることはそんなに珍しくありません。「いいですよ、お待ちしていますね」と答えて、いくらか会話を交わしたあと、今週来るかな? 来週来るかな? と待っていたものの、結局、会えなかった人たちもたくさんいます。
 
あの時、もう少し上手く答えていれば……もう少しちゃんと話を聞いていれば……ここに来てもらうことができたんじゃないか? 電話に出たのが自分じゃなくて、違う人だったら、もっと教会に来やすかったんじゃないか? 似たようなことは、たぶん、牧師じゃなくても、皆さん経験していると思います。
 
中には、はっきり自分が信じているものを否定された方もいるでしょう。あなたの信じている神様とか、イエス様とか、私には信じられない……どうして、そんなものを信じるのか理解できない……あなたは弱いから、頭がおかしいから、そういうものにすがって生きているんじゃないの?
 
なかなか厳しい言葉ですが、これは実際、私が子どもの頃に同級生から言われたことです。もっと軽く、冗談っぽく言われましたが、一度こういう反応を受けると、もう、まともに教会の話を外でしようとは思えなくなります。そっちから「お前のうち、何信じているの?」と聞いてきたくせに……と恨めしく思いながら、笑って流すようになります。
 
これがイエス様だったら、ちゃんと答えられたんだろうな……イエス様の弟子たちだったら、もっと納得できる答えを返せたんだろうな……そう思いながら、参考になる言葉はないか、聖書の記事を探していくと、けっこうあちこちに、私と同じことを言われた弟子たちやイエス様の姿が出てきます。
 
そのうちの一人がパウロです。キリスト教の初期に世界宣教を担った立役者、あのパウロなら、きっと多くの人を説き伏せられたに違いない。彼のおかげで、たくさんの人が洗礼を受け、信仰を持つようになったのだから……ところが、先ほど読んだ箇所だけでなく彼が宣教したあらゆる町で、パウロの言葉は、なかなか受け入れられません。
 
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」……公衆の面前で、権威ある総督からそのように言われてしまいます。同胞のユダヤ人であるアグリッパ王にもこう言われます。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか?」
 
ようするに、この時間で自分を説き伏せることは、キリスト信者にすることは、お前にはできなかったんだと、公衆の面前で言われるんです。容赦ないですよね……私だったら恥ずかしくて、顔が真っ赤になるでしょう。「いや、別に、説き伏せるとかそんなつもりじゃなくて、信じてもらえればいいなと思っただけで」とゴニョゴニョ何か呟くでしょう。
 
パウロも冗談を交えてこう返します。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」……それ以上、彼の話は聞いてもらえません。
 
もう終わったね? これ以上話を聞く必要はないね? と言わんばかりに、王は立ち上がり、総督も立ち上がり、陪席していた者たちも立ち上がって退場していきます。パウロの話に納得した者、共感した者は現れません。ただ、死刑や投獄に当たるようなことはしてないし、皇帝に上訴さえしなければ、釈放してもらえただろうに……と言われます。
 
ようするに、愚かな者として言及され、置き去りにされてしまうんです。その日、パウロの話を聞いた者の中で、「自分もイエス様を信じます」と名乗り出た者はいませんでした。「私もあなたのようになりたいです」と洗礼を受けに来た人はいませんでした。実は、他の国でも、町でも、似たようなことは何度もありました。
 
どうも、聖書を読んでいると、パウロの話を聞いて、信じて洗礼を受けた者より、信じられずに、洗礼を受けなかった人……頭がおかしいと思って、納得できなかった人……反感を覚えて、むしろ攻撃してくる人……の方が、多かったのではないかと思わされます。それは、パウロだけでなく、他の弟子たちが宣教した場合も同様でした。
 
というか、イエス様が宣教を始められたときも、「権威ある教えだ」と群衆に喜ばれたかと思いきや、ユダヤ人の反感を買い、会堂から追い出され、崖に落とされそうになることなど、けっこう頻繁にありました。イエス様が語ったからと言って、みんなが簡単に信じたわけではありませんでした。一度受け入れたのに裏切る者も出てきます。
 
けれど、不思議なことに、イエス様も、弟子たちも、皆、自分が受け入れられなかったところへ、その後も訪れたり、手紙を送ったりしています。他の仲間を遣わしたり、様子を聞きに行ったりしています。普通、イエス様に「説き伏せる」ことができなければ、使徒たちに「説き伏せる」ことができなければ、もう無理だと思いますよね。
 
でも、イエス様は、自分を拒んだところにも弟子たちを遣わし、拒まれた弟子たちは、また新たに仲間を遣わし、追い出されたパウロは、さらに手紙を送りました。伝道が上手くいかない様子をそのまま記し、聖書の中に残しました。パウロの言葉でも、イエス様の言葉でも、説き伏せられなかった出来事を、今に至るまで晒しています。
 
しかし、それは決して、絶望を生み出すものではありません。むしろ、私たちは知っています。ローマへ宣教しようとしたパウロが、説き伏せられなかった人たちに、何世代にもわたってキリスト信者が信仰を証しし、その地でキリスト教が、公認されるに至ったことを。短い時間で説き伏せられなかった人たちが、そのまま放置されなかったことを。
 
現代の教会でも、親が生きている間、信仰を持つことのなかった子どもたちが、葬儀のあと、再び教会へ来るようになり、自分の意志で、信仰を告白することがあります。牧師の言葉が良かったわけでも、誰かが説き伏せたわけでもないのに、かつて蒔かれた御言葉の種が、芽吹いて花になるときがあります。
 
説き伏せる必要はないんです。その場で受け入れさせる必要はないんです。私の思う時間を超えて、私の大切な人たちに、イエス様はちゃんと出会ってくださるんです。かつて自分を受け入れなかった人たちにも、死を超えて出会ってくださったように、救い主イエス・キリストは、必ず出会ってくださいます。
 
パウロは、全ての人が退場したあと、船に乗せられ、ローマへ向かって出発しました。恥ずかしい姿を晒したあとも、信じてもらえなかったあとも、自分と出会った全ての人にイエス様が出会ってくださることを信じ、信仰を証しし続けました。あなたがたも、信じてもらえなかったことを悲しみ続ける必要はありません。
 
あなたが信じている方は、一人一人が「信じない者」ではなく「信じる者」となれるまで、何度でも出会い、付き合い続けてくださるからです。この方は、暗闇に光を照らされて、希望で満たしてくださいます。悲しむ者を喜ぶ者に変えてくださいます。共に、復活の主が示された、良い知らせを味わいましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。