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悪魔祓いと病の癒し【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録19:11〜20

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

スカッとする話が好きな人は、この話も爽快なエピソードの一つとして、好意的に受けとめるかもしれません。神様を信じ、神様が遣わした救い主イエス・キリストの教えと業を宣べ伝え、各地で伝道していた宣教者パウロは、様々な病人を癒し、悪霊も追い出すことができた。
 
彼が直接触れなくても、彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを当てるだけで、人々の病気は癒やされ、悪霊を追い出すことができた。一方、各地を巡り歩く祈祷師たちは、試しに、パウロの真似をして、悪霊を追い出そうとしたところ、全く効果がなく、かえって悪霊に取りつかれた男から、裸にされ、傷つけられ、ボコボコにされてしまった。
 
しかも、その祈祷師たちというのが、ユダヤ人の祭司長スケワという人物の7人の息子です。祭司長といえば、度々、イエス様に敵対し、人々の前で陥れようとする、代表的な立場でした。イエス様が十字架にかかって復活し、天に昇ったあとも、ペトロやパウロをはじめとする弟子たちに、攻撃や妨害行為を行っていました。
 
ようするに、キリスト教を宣教する立場から見て、分かりやすい「敵」でした。もちろん、祭司長だって、神様に仕える存在で、神様の教えと業をみんなに告げる、という意味では、仲間になるはずでしたが、彼らはパウロたちのことを「神への冒涜者だ」と言い、自分たちこそ、正統的な教師であると訴えていました。
 
だからこそ、そんな祭司長の息子である7人が、本来、禁じられている魔術や呪術を生業とし、祈祷師として各地を巡り歩いていたのは、自らの株を下げるのに、ちょうど良いエピソードでした。さらに、人々の間で評判になった、パウロの奇跡を真似しようとし、全く通用しなかったことは、神に反抗した者たちを彷彿とさせる出来事でした。
 
出エジプト記で、モーセが魔術師と闘ったときや、列王記で、エリヤがバアルの預言者たちと闘ったときが思い出されます。本物の信仰があれば、神の力を受けていれば、問題なく病人を癒すことができ、悪霊を追い出すことができるけど、見せかけの信仰なら、神の使いを騙っているなら、全く通用しないどころか、かえって酷い目に遭ってしまう。
 
キリスト者を舐めたらどうなるか、信仰を甘く見たらどうなるか、分かりやすく教えてくれる、便利な出来事です。でも、一方で、私たちはこんなに単純な話ばかりにならないことも知っています。こころみに、悪霊を追い出す者たちが、みんな酷い目に遭うのなら今だって、こんなに多くの霊感商法は起きていません。
 
キリスト教を装いながら、信徒や牧師を装いながら、「病が治る」「悪霊を追い出せる」と宣伝し、人を集める集団が、野放しなままはおかしいです。実際、パウロが宣教していた時代も、祈祷師や魔術師はたくさんおり、その後も、居なくなったわけではありませんでした。助けを求める人たちを騙し、搾取する者は消えませんでした。
 
もし、この話を「キリスト者は、奇跡を起こすことができる」「キリスト者でない者は、奇跡を起こせない」と単純に理解したら、騙される人が増えるでしょう。何が、神による奇跡か分からない私たちは、偶然を利用する人や、知識の乏しさに付け込む人が、「私の祈りで癒された」「私が手を置いて癒された」と言えば、思わず信じてしまいます。
 
また、「奇跡を起こせなければ、本当の信仰ではない」「祈って酷い目に遭った人は、偽物の信仰を持っていた」と安易に理解すれば、傷つく人が増えるでしょう。晩年のパウロも病が治るよう祈りましたが、かえって弱くされ、家から出られなくなりました。しかし、それは信仰がなかったからではなく、彼の弱さが手紙という形で用いられるためでした。
 
さらに、使徒言行録では、次々と奇跡を起こしているように見えますが、パウロ自身が書いたコリントの手紙では、「奇跡を行うことができない者」として、論敵から攻撃されていたことが記されています。奇跡は、神様が私たちを通して現すものであって、私たちが神様の、イエス様の名前を使って自由に起こせるものではないんです。
 
実は、この話で重要なのは、パウロの起こした奇跡でも、祈祷師たちが酷い目に遭ったことでもなく、その後に、信仰に入った大勢の人が、自分の悪行を告白して、魔術を行っていた者たちも、その書物をみんなの前で焼き捨てたことにあると思います。書物自体が貴重だった時代、それを持つことは単なる趣味ではなく、生業の一部だったでしょう。
 
つまり、試しに魔術を行って、病人や悪霊に取りつかれた人を搾取し、コントロールしていた者たちが、過ちを告白し、その業を捨て、一緒に、イエス様の教えを信じるようになったことが、書かれているんだと思います。今まで騙していた人たちが、いくら、その過ちを反省しても、簡単に教会へ受け入れられたとは思えません。
 
旧約聖書の時代から、魔術や呪術に触れる者への目は厳しく、その書物を持っている、それを生業にしていた人たちは、いわゆる「汚れた者」「罪人」と見られることは避けられなかったでしょう。そんなことに触れていた人たちと、一緒にやっていきたくない、という人たちも多かったでしょう。
 
にもかかわらず、自分の悪行をはっきり告白した人たちは、信じる者の輪に加わり、一緒にイエス・キリストの教えと業を伝え広げていく者として、仲間に受け入れられていきます。「お前たちと一緒になったら、あの祈祷師たちのように酷い目に遭わされる」と避けられないで、共に、悔い改めて、新しい生き方へ変わっていこうと歩まされます。
 
この教会では、どうでしょうか? 悪いことを悪いと言うだけで、こっちへ来るなと言うだけで、一緒に変わろうとしなければ、私たちは、罪人と一緒に食事をしてくれた、徴税人を弟子にした、共に十字架にかかってくれたイエス様と、歩む者とは言えないかもしれません。
 
今一度、自分の生き方を見つめながら、本来、一緒になれなかった者と、新しい生き方へ変えられていく奇跡を、求めて祈りたいと思います。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。