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誰を捜しているのか?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書18:1〜9、33〜40

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリストの復活を記念するイースターまで残り一週間となりました。イエス様は十字架につけられる一週間前、エルサレムに入城し、自分を殺そうと企んでいるファリサイ派や祭司長たちの前に姿を現しました。けれども、多くの人がイエス様を取り囲んで「イスラエルの王」と讃えて出迎えたため、彼らは簡単に手を出すことができませんでした。

イエス様が多くの病人を癒し、死んだ人まで生き返らせたので、それを目撃した人が、口々に知らせて回り、「この方こそメシア(救い主)ではないか」と考える人が、一気に増えていたんです。群衆は、ロバに乗ったイエス様を迎え、棕櫚の葉を振りながら、自分の上着や葉っぱを敷いて、王が通られる道を作りました。

「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」がやってきた。自分たちの国を占領するローマ帝国の傀儡のような王ではなく、神様によって立てられた本当の王が、今こそ、私たちを解放してくださる……そんな期待に溢れて、「主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」と叫んでいたんです。

けれども、このとき、イエス様に向かって「ホサナ」(ばんざい)と叫んでいた群衆は、その一週間後、「十字架につけろ」と叫ぶようになりました。イエス様を指して「見よ、あなたたちの王だ」と言われても「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と訴え、メシアを待ち望むよう、教えていたはずの宗教指導者は「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い出します。

異邦人の支配から解放されることを願い、約束された救い主、新しい王を待望していた人たちが、異邦人の役人に向かって「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言ってしまう……救い主メシアの待望をなかったことにしてしまう……今まで何を待っていたのか、誰を捜していたのか、分からなくなる言葉です。

ちょうど、イエス様が、祭司長たちやファリサイ派から遣わされた人々に、逮捕されようとしていたとき、尋ねた言葉が思い出されます。「だれを捜しているのか?」……それは単に、自分を捕まえに来たことを確かめるための問いではなく、あなたたちは救い主を、新しい王を捜していたのではなかったか? と問われる言葉でもありました。

イエス様を捕まえようとした人々は、この問いに対し、「(捜しに来たのは)ナザレのイエスだ」と答えますが、イエス様が「わたしである」と答えると、後ずさりして、地面に倒れてしまいます。不思議ですよね? イエス様の方は、武器も持っていないし、脅しもしていません。押したり、殴ったりもしていません。

恐れる理由はないはずなのに、何もされていないのに、兵士と下役たちは、武器を持ったまま、後ずさりして倒れます。そのまま何もできない彼らに、イエス様は、もう一度、「だれを捜しているのか」と問いかけました。彼らは再び、「ナザレのイエスだ」と答えますが、やはり、動けませんでした。

「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい」そう言って、イエス様は自らその身を差し出します。人々に「わたしである」「わたしである」と繰り返し語るイエス様の返事は、かつて、モーセにその名を問われた神様が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えた返事を思い出させます。

イエス様を捕まえにきた人々は、「だれを捜しているのか」という質問を「私を捕まえるために捜しにきたのか?」という意味にしか受け取りませんでした。しかし、この質問には「あなたたちが捜している、新しい王は誰なのか?」という意味もありました。彼らはその答えを「ナザレのイエスだ」と返します。

面白いことに、質問の真意が分かっていなかったのに、彼らは正しい答えを返します。ナザレのイエスこそ、彼らの待ち望んでいたはずの救い主メシアであり、新しい王として遣わされた方でした。その方を死刑にするため、捕まえるため、捜しにやってきた彼らは殺そうとしている相手に意図せずひれ伏し、メシアを拝んだときのような姿を見せます。

同様に、イエス様へ死刑の判決を下したローマの総督ポンテオ・ピラトも、イエス様を「ユダヤ人の王」として、イスラエルの人々が待ち望む救い主の王として、認めるような発言を、意図せず口にしています。「お前がユダヤ人の王なのか」……イエス様の取り調べで、最初にピラトが聞いたのはこの質問です。

その後も、イエス様が「王なのかどうか」執拗に答えを聞き続けます。しかし、本来、ローマの総督が問うべきことは、ローマの法律で死刑に値する罪を犯したかどうかです。「いったい何をしたのか」という質問こそ、繰り返すべき問いかけです。しかし、ピラトの関心は、なぜか「イエスが、王なのかどうか」に向けられます。

もちろん、ピラトはユダヤ人ではなかったので、イスラエルの人々のように救い主を、新しい王を、待ち望む信仰はありません。イエス様が、ユダヤ人の待ち望んでいるメシアかどうか、自分には関係ないと思っていたはずです。実際、彼は、イエス様とのやりとりで「わたしはユダヤ人なのか」と苛立ち、自分の問題ではないと答えています。

それなのに、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」として、人々に認めさせようと、繰り返し群衆の前に出ていきます。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言うばかりでなく、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」「見よ、あなたたちの王だ」「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と3回にわたって繰り返します。

彼自身にそのつもりがなくとも、もはや、イエス様を王と認める信仰告白に見えてきます。イエス様はピラトに対し、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問いかけました。ピラトはそれに対し、「わたしはあなたを王だと思います」とは答えられません。

けれども、「あなたはわたしの王じゃない」「わたしにとってはただの人だ」とも答えられませんでした。さらに、ユダヤ人から「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と言われてからも、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」「あなたたちの王」と言い続けました。

本当はダメなはずです。イスラエルには、ヘロデのように、ローマ皇帝から選ばれた、傀儡の王がいたはずです。それ以外の王を、「ユダヤ人の王」とローマの総督が認めたら、皇帝に対する無礼として、告発されても仕方ありません。単なる意地で、「ユダヤ人の王」と言い続けるには、リスクが高い行動です。

にもかかわらず、ピラトはイエス様を「ユダヤ人の王」と言い続け、十字架の罪状書きにも「ユダヤ人の王」と書かせました。祭司長たちから「『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言われても、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って、最後まで貫き通します。

だれを捜しているのか? 救い主メシアは誰なのか? イエス様を捕まえにきた人々もイエス様に死刑の判決を下した総督も、分かってはいませんでした。分かってはいなかったのに、彼らは「ナザレのイエスを捜している」と答え、その方にひれ伏し、イエス様を王と呼びました。自分が殺そうとしている、死に定めようとしている人を。

ヨハネによる福音書には、キリストの復活を信じなかったトマスに対し、イエス様自身が、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語る言葉が出てきます。自分が復活したことに気づかず、泣き続けるマリアに対し、「だれを捜しているのか」と振り向かせるイエス様の言葉が出てきます。

みんな、出会ったときは、分かっていませんでした……自分に問われた方が誰なのか、誰が自分へ会いに来たのか、分かっていませんでした。しかし、それが誰なのか分かるまで、「わたしの主、わたしの神よ」と自ら告白できるまで、イエス様は、私たちに出会い続け、呼びかけ続けてくださいます。

「だれを捜しているの?」……イエス様を「救い主メシア」と告白できない人たちも、信じ切れない人たちも、否定している人たちさえも、この方は、神の国の食卓へ、共に招いてくださいます。信じない者から信じる者へ、悲しむ者から喜ぶ者へ、争う者からとりなす者へ変えられます。

キリストの復活を記念するイースターまで、あと一週間……この方を前にして、問われた言葉を思い出しなさい。あなたを自分の子として、兄弟として、「ここにいる」「わたしである」と示し続けた方を思い出しなさい。父である神と、わたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。アーメン。

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