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誰を信用しているか?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録27:1〜12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

イエス・キリストの教えと業をローマでも証しするため、宣教者パウロは囚人として、皇帝のもとへ護送されていきました。普通、囚人として捕えられ、兵隊に囲まれて生活する、というのは、宣教が中断され、妨害されている状態だと感じます。しかし、パウロを捕えてローマへ連れていく人たちこそ、彼が遣わされた宣教相手でもありました。
 
そのことを象徴するかのように、自由に宣教できないはずのパウロは、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスから親切に扱われ、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許してもらえます。囚人が、友人と自由に接触できるというのは、脱走や共謀の危険があり、本来、許されるはずがありません。
 
しかも、皇帝直属部隊の百人隊長が、そんなリスクを犯してパウロを親切に扱った、というのは、やはり驚きです。囚人を護送する見張り役というより、宣教師に便宜を図る有力者のようです。このように、使徒言行録に出てくる、パウロの逮捕、投獄、裁判といった出来事は、いずれも、単なる苦難や困難としては描かれません。
 
彼を捕えた人たちが、彼の宣教相手であり、彼の捕えられた場所が、彼の遣わされた場所であり、彼に裁きを下す所が、彼の証しをする家として「見えない教会」が建てられる様子を描いています。使徒言行録に記された、聖霊による導きは、分かりやすい「成功」や「解決」をもたらすものとは違います。
 
むしろ、神様に遣わされたはずの使命が中断された、妨げられた、台無しにされたというシーンで、思ってもみない形で、神の御業が進んでいる……という良い知らせを伝えています。確かに、コロナ禍で宣教が中断された、自由に集まれなくなった、と思っていた私たちにも、配信を通して新たな仲間が加えられ、転入会者や受洗希望者が出てきました。
 
もちろん、コロナ禍の間は、祈っても、祈っても、なかなか感染症が収束しない事態を前に、「私たちがここでしている礼拝は、伝道は、何か間違っているんだろうか?」「私たちがここでやっていることは、御心じゃなかったんだろうか?」と自信を失くすこともありました。
 
きっと、パウロも同じだったと思います。自分がエルサレムへ帰ってきたことは、ローマへ行こうとしたことは、御心じゃなかったんだろうか?……しかし、議会で、監獄で、護送船で、彼は日々、気づかされていきます。違う、今、私が居る所こそ、私が立ち止まらされているこの場所こそ、神様が遣わした家であり、使命を果たす場所なんだ……と。
 
そして、彼と共に、同行を許された友人たちも、パウロと同様、幾度も、苦難や困難に遭いながら、彼についていくことを「御心じゃなかった」とは言わず、彼と一緒にローマを目指し続けます。27章の2節に出てきた、テサロニケ出身のマケドニア人、アリスタルコという人は、19章の29節と20章の4節にも出てきた人物です。
 
彼は、パウロと一緒に居たことで、エフェソの町で、異なる信仰の人たちに捕えられ、野外劇場へなだれ込んでいく群衆に、連れ回された人でした。一時、アリスタルコの安否は分からないままでしたが、どうやら騒動が治まった後、何とかパウロと合流できたみたいです。
 
けれども、その後もパウロと同行する度に、パウロを殺そうとする者、貶めようとする者が現れ、しばしば危険な目に遭います。パウロと離れ離れになっては、何とか合流して世話をする……ということが続きます。今回も、ローマへ護送されるパウロにようやく合流し、出発できたところで、向かい風による立ち往生を喰らいました。
 
これも、単なる立ち往生じゃありません。幾日も船足がはかどらず、ようやく近づいた港にも、風に行く手を阻まれます。何とか遠回りして、違う港に着いたときには、そこで冬を越すことが厳しい状況になっていました。奇しくも、「断食日」を過ぎたとき、ユダヤの暦で、神様に自らの罪を悔い改める「大贖罪日」を過ぎたときです。
 
船に乗っている人たちへ、神様から、何か罪を責められているように感じたかもしれません。旧約聖書にも、神様から「ニネベの街へ行け」と命じられたヨナが、それに逆らって逆方向の船に乗り、激しい風によって、進行を妨げられた話が出てきました。その風は船を転覆させる勢いで、ヨナが海に投げ込まれるまで、止むことがありませんでした。
 
同じように、向かい風によって船が進まなくなり、ローマへ行くことが困難になった自分たちの状況は「自分が同行するパウロに、神様は何か怒っているんじゃないか?」と感じても、仕方がないかもしれません。イエス様が、弟子たちと一緒に乗った舟の上で、嵐を鎮めたのと違って、パウロは、風も波も止められません。
 
「本当に、この人は神様に守られているんだろうか?」「ここまで危険な目に遭うのは、この人と一緒に行くなというしるしじゃないか?」……そのように疑っても、不思議ではありません。そんな中、パウロは人々に、このまま次の港を目指すのは危険だと訴えます。単なる忠告ではなく、航海に出れば、危険と損失がもたらされると預言します。
 
けれども、当初、パウロに好意的だった百人隊長ユリウスは、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用し、冬を越すのに適していないこの港より、フェニクス港を目指して出発することを決めました。実際、パウロは船乗りでも、航海の専門家でもないので、このように判断するのは不自然ではありません。
 
でも、もしかしたら、それだけでなく、船に乗っている人たちの間で、パウロに対する信用が、保てなくなったのかもしれません。神様に遣わされて、ローマへ行くと言いながら、囚われの身となり、風に阻まれ、冬を越すのも危険な状況になっているのは、彼の言っていることが「御心じゃないから」「神様の意志と違うから」じゃないか?
 
一方で、これまでもパウロと一緒に居て、群衆に捕えられたり、危険な目に遭ったり、離れ離れになってきた友人たち、アリスタルコらは、そのまま船を降りることなく、パウロと一緒についていきます。なかなかローマに着かないから、何度も行く手を阻まれるから、この道は神様の意志じゃない……と安易に結論づけません。
 
彼らは単純に、パウロの言うことを信用したというよりも、困難の中、御業を進めてきた神様のことを信用して、一緒について行きました。たとえ危険な目に遭っても、船が壊れて離れ離れになったとしても、神様は私たちを引き合わせてくれる。私たちを、必要なとき、必要なところへ連れて行ってくれる。これまでのように……。
 
皆さんは、誰を信用するでしょうか? 言うことを聞かなかったら、私たちを翻弄して心を折るような方でしょうか? それとも、私たちが「失敗した」「もう駄目だ」と思っているとき、「成し遂げられた」と前を指し、御業が進んでいることを示す、希望をもたらす方でしょうか? 
 
キリストの復活を記念するイースターから一週間、新たな年度を迎えて、歩みを進める私たちに、今日も風が吹いてきます。それは、ただの向かい風ではありません。あなたに命を吹き込む神の息、聖霊が注がれる風でもあります。御心が分からなくて、立ち往生している全ての人に、神の息が、新たな力を与えてくれますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。