見出し画像

悪魔祓いになってない【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》申命記6:16〜19、ルカによる福音書4:1〜13

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「悪魔祓いになってない」

キリストの復活を記念するイースター前の6週間、「受難節」に入りました。この期間、キリスト教会では、イエス様の受けた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改めて、イエス様の復活を祝う準備をしていきます。その最初の日曜日に、多くの場合、イエス様が40日間、悪魔の誘惑を受けた話が読まれます。
 
そこで、信徒の中には、自分も40日間、お酒やお菓子を我慢して、誘惑に耐えながら、イエス様の受けた苦しみを思い起こし、感謝と悔い改めの日々を送る人もいます。そんなとき、「やらない」と決めたことをさせようとする、「しちゃいけない」と思うことに手を出させようとする「誘惑」が、自分自身をそそのかす「悪魔」のように感じられます。
 
実際、聖書に出てくる「悪魔」や「サタン」という存在も、人々を「誘惑する」あるいは「試みる」「試す」者として出てきます。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ?(本当に神の子ならできるはずだ)」とか、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ(本当に神の子なら平気なはずだ)」というふうに。
 
よく見ると、こういうふうに「試みる」「試す」様子は、信仰者の間でこそ、見られやすいかもしれません。「信仰者なら、もっと借金してでも献金したらどうだ?(本当の信仰があれば、借金もすぐに財産へ変えられるはずだ)」とか「信仰者なら、通院をやめて薬を捨てたらどうだ?(本当に信仰があるなら、祈って病気を治せるはずだ)」というふうに。
 
おそらく、皆さんがイメージする悪魔の誘惑というものは、もっと衝動的な欲求を刺激してくる存在じゃないかと思います。暴飲暴食、薬物やアルコール、物欲や承認欲求を満たす乱暴な行動、あるいは、誰かに責任をなすりつけたり、誰かを虐めて自分を守ろうとしたりする行為……そんな「よくある誘惑」を思い浮かべやすいと思います。
 
しかし、聖書に出てくる悪魔やサタンは、単に、衝動的な欲求を刺激する存在というよりも、信仰を理由にした過激な行動や、信仰に優劣をつけようとする態度へ、引っ張り込もうとしてくるものです。「信仰があるなら、これもできるはず」「信仰で守られるなら、これも平気なはず」「偽物の信仰か、本物の信仰か、試させてくれ」……と。
 
旧約聖書に出てくるヨブは、「本物の信仰なら、病気になっても、家族を失っても、神に従い続けるはず」というサタンの働きによって、体を壊され、子どもを失い、財産も奪われてしまいました。新約聖書に出てくるユダは、サタンが入ったことによって、「神の子なら、自分が売っても、殺されまではしないはずだ」とイエス様を裏切ってしまいました。
 
聖書に出てくる悪魔って、こんなふうに、「神様に守られている人」「神様を信じている人」を試そうとしてくる存在です。実はそれって、信仰の芽生えた人たちにこそ、よく訪れる光景です。「信じて洗礼を受けたなら、あなたもここまでできるよね?」「神様を信頼しているなら、これも忍耐できるよね?」と。
 
そう言えば、イエス様が悪魔の誘惑を受けたのは、ヨハネから洗礼を受けて、聖霊に満たされた直後でした。私たちが教会で洗礼を受けて、信仰を持つようになってすぐ、誘惑が近づいてきます。信仰者になった自分自身を、あるいは同じ信仰者を、もしくは、信仰者を守る神ご自身を、試そうとする態度が現れます。
 
厄介なことに、この「試そうとする態度」は、なかなか、悪魔の誘惑には見えません。むしろ、「神様が何でも可能にすると信じているから」「神様が守ってくれると信じているから」「信仰があるから、やる必要がある」と勘違いさせてくるんです。実際、イエス様を試した悪魔の言葉も、「言われたとおりにしなければ」と思わせてくる内容でした。
 
たとえば、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」……石をパンに変えられないなら、あなたが神の子であるとは認められない。しかし、石をパンに変えたら、人々もあなたを神の子とすぐに認めるだろう。それとも、あなたはやはり神の子ではなく、聖霊に満たされた今も、「石をパンに変えられる」と信じていないんじゃないか?
 
こう聞かれたら、神の子として、聖霊に満たされた者として、石をパンに変えなければと思う方が自然でしょう。そうする方が信じてもらえるし、信仰の証になると思うでしょう。信仰的な理由から、石をパンに変える、正当的な理由があると感じるでしょう。しかし、イエス様は答えます。
 
「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」……それは、神の子でなくても知っている、聖書の言葉の一つでした。神の子であることを証明するため、奇跡を行おうとはしませんでした。奇跡を見せることで、認めさせ、信じさせようとはしませんでした。その試み自体が誘惑だったからです。
 
次に、悪魔はこう言いました。「この国々の一歳の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」……これも、厄介な論法でした。私はこの一帯を任されている。私が権力を振るえているのは、神にその役目を任されているからだ。私に従うことは、神に従うのと同じことだ……。
 
カルト化教会の指導者が、言いそうなことを言ってくる悪魔に、イエス様は答えます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」……再び、神の子でなくても知っている、聖書の言葉を読み上げます。イエス様は、権力を任されている存在へ「あなたは神ではないし、神のように扱われるべき存在でもない」と、はっきり言いました。
 
最後に、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
 
こう聞かれたら、神の子として、神様が自分を守ってくれることを証明しなければと思うでしょう。飛び降りなければ、「やっぱり神様はいないんだろう?」とか「神様が守ってくれると信頼していないんだろう?」と言われてしまうでしょう。信仰的な理由から、危険に身を投じることが、間違っていないように感じるでしょう。
 
しかし、イエス様は答えます。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」……最後まで、神の子でなくても知っている、聖書の言葉を告げるだけでした。神の守りを証明するため、神への信頼を見せるため、自分を危険に晒そうとはしませんでした。その試み自体が誘惑だったからです。

やがて、悪魔はあらゆる誘惑を終えて、去っていきます。しかし、イエス様を「試みる者」「試す者」は、この後も次々と出てきます。それは、ファリサイ派や律法学者だけでなく、イエス様に奇跡を要求する群衆や、故郷の人々も含まれました。教会にいる私たち自身も、いつの間にか、信仰者である自分自身を、他の誰かを、試す者になっているかもしれません。
 
この箇所は、イエス様による最初の「悪霊追放」「悪魔祓い」の記事に見えますが、単なる「悪魔祓い」にはなっていません。聖霊に満たされているのに、聖霊の不思議なパワーは一切使わず、十字架や聖水も一切用いず、奇跡も全く行いません。悪魔との闘いらしい闘いはありません。むしろ、勝負を避けています。
 
そう、誘惑を受けたイエス様がしたことは、ただ、試してくる者の試みに乗らなかっただけです。洗礼を受けて、聖霊に満たされた直後のイエス様が、色々な奇跡で対抗するのを期待する私たちに、真逆の対応を示します。私たちが悪魔と気づかず、誘惑と気づかず、試みと気づかずに受けていること、してしまっていることを、悟らせようとしてきます。
 
キリストの復活を記念するイースターまで6週間、神の子であるイエス様を、神の民である仲間たちを、試してしまう罪から離れ、イエス様が答えた神の言葉を味わうことができるように、静かに祈りを合わせましょう。変化と回復をもたらすキリストが、私たちを起こしてくださいますように。アーメン。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。