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非難される点【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テトスへの手紙1:1〜9

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 テトスへの手紙は、テモテへの手紙一・二に続く「牧会書簡」の一つです。牧会書簡というのは、会衆を導く教会の指導者「牧会者」に向けて書かれた手紙で、指導者の資格や指導の仕方が記されています。また、会衆に対しても、指導者をどのように選び、どのように受け入れるべきかが示されます。

 ただし、テトスへの手紙も、テモテへの手紙一・二と同じく、宣教者パウロからテトスへ向けて書かれた形を取っていますが、実際には、パウロの死後、2〜3世代を経て、彼の弟子たちが、パウロの名前で書いた手紙と言われています。尊敬する有名な人物の名前で手紙を書くのは、その人の教えと生涯を称える方法として、当時では普通のことでした。

 もちろん、2〜3世代の間に、パウロの教えの受け取り方もいくらか変わってしまうので、彼が直接書いた手紙と思われるものと、だいぶ様子が違います。パウロは通常、自分のことを「キリスト・イエスの僕」というふうに表現しましたが、この手紙では「神の僕」というふうに表現しています。

 その表現は、神様から直接「わたしの僕」と呼ばれたモーセや預言者を思い起こさせ、パウロとパウロの弟子たちも、神様に選ばれ、聖霊を受けて、それぞれの教会へ遣わされていることを強調した表現と思われます。おそらく、テモテへの手紙にもあったように、テトスへの手紙が書かれた頃も、指導者にふさわしい者が、言うことを聞いてもらえず、ふさわしくない者が、会衆に喜ばれてしまう、歪んだ現実があったのだと思います。

 パウロの教えに従う弟子たちの中には、生粋のユダヤ人でない、異邦人の血を引く人間や、ユダヤ人の背景が一切ない、外国の人間が多くいました。しかし、キリスト教が生まれたイスラエルの社会では、ユダヤ人のように神様から与えられた律法を守っていない外国人、異邦人は、神の民としてふさわしくない、滅ぶべき存在と思われていました。

 ところが、手紙の宛先として記されているテトスという人物は、ガラテヤの信徒への手紙で、「ギリシア人であった」ことがはっきり書き残されています。おそらく、母親がユダヤ人で、父親がギリシア人だったテモテより、さらに、ユダヤ人に受け入れてもらいにくかったでしょう。

 律法を知らずに、律法を守らずに育ってきたギリシア人のくせに、我々を教えることができるのか?……という冷たい目線が向けられていたかもしれません。同じギリシア人であっても、ユダヤ人から伝わってきた神の教えを、ユダヤ人じゃない同胞から教えられても、説得力に欠けると思われていたかもしれません。

 ようするに、非ユダヤ人というだけで、指導者として立つことを非難されてしまう……そんな背景があったんです。たとえるなら、女性というだけで指導者に立たれることを拒否されてしまう、女性というだけで言うことを聞いてもらえない、そんな場面といくらか重なるかもしれません。

 けれども、ユダヤ人であるパウロは、異邦人であるテトスのことを「信仰を共にする」同労者として扱い、自分が直接教えた弟子として「まことの子」というふうに呼び、この手紙でも、そのことが反映されています。ユダヤ人か、異邦人か、どこで育ったかは関係なく、テトスをはじめとする弟子たちも、神様の教えと業を人々に伝える者として立てられている指導者として、ちゃんと受け入れるように、各教会へ働きかけていたんでしょう。

 一方で、6節以降には、長老と監督の資格について述べられており、今度は逆に、差別的な表現が現れてきます。「長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません」……長老というのは、教会で指導的立場を担う役職の一つで、いくらかズレはあるものの、現代の教会の役員を思い浮かべてもらえたらいいと思います。

 ただし、「役員に選ばれる人間は、一人の妻の夫でなければならない」なんて言い出したら、現代社会では炎上してしまうでしょう。また、「その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません」とありますが、これでは役員を選出するために、無理やり子どもたちへ洗礼を受けさせようとする「宗教二世」問題が起こってしまいかねません。

 家庭を持っていなければ、子どもを信者にできなければ、品行方正に育てることができなければ、教会で指導的立場を担う資格はない……これを現代に適用すれば、独身の私も牧師になれませんし、子どもが洗礼を受けてない役員は、みんな辞めなければならなくなるでしょう。というか、そもそも役員が選出できません。2〜3世代前に、パウロが教えていたことからも離れている内容でした。

 さらに、長老になる人間は、男性に限定されてしまうので、これも非常に差別的です。よく見ると、テトスへの手紙に出てくる教えのとおりに実行したら、華陽教会の役員会は誰一人、残ることができなくなってしまいます。もちろん、男性中心主義の家父長制が、当たり前だった時代の制約を受けているので、これらの記述を字義通り、現代の教会に適用するのは不適当です。

 「非難される点がないように」と人々を戒める記述で、かえって、それを書いた著者の側が、非難される点を見つけてしまいました。しかし、このような時代的制約、差別や偏見を有していた人々が、神様の導きによって、異邦人に対する差別を乗り越え、共に歩む道のりが備えられてきたことにこそ、良い知らせが隠れています。

 聖書の記述の中にさえ、「非難される点」は見つかります。しかしそれは、非難される者が、そのまま歪んだ状態で放置されることを意味しません。むしろ、非難される点がなくなるように、新しく変えられていくように、神様が付き合い続けて来られた歴史を、思い起こさせるものなんです。

 先ほどの「長老に選ばれる資格」をもう一度思い出してみましょう。神様からイスラエルの王として用いられた、サウロやダビデやソロモンを思い出してみましょう。彼らもまた、この条件を満たせない、選ばれる資格のない人間でした。条件を満たしたから、資格があるから、王として、指導者として、座していることが許されたわけではありませんでした。

 むしろ、神様は彼らに預言者を遣わし、非難される点を指摘させ、民を正しく導けるように、付き合い続けて来られました。あれだけ、非難される点があった王たちも、イエス様の弟子たちも、当時の偏見や固定概念を超える、新しい生き方を広げていく者として、送り出されていきました。

 神様が、サウルを通して、ダビデを通して、ソロモンを通して、神の民イスラエルにもたらした、様々な出来事を考えると、非難される点が、あちこちにある私たちも、新しい生き方へと押し出され、共に変わっていく力が与えられることを思わされます。引き続き非難される点がないか、変化を促す神の呼びかけを聞きながら、今なお、この方が離れないで、付き合い続けてくださることを覚え、歩んでいきたいと思います。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。