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私は友でいられるか?【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 申命記7:6〜11、ヨハネによる福音書15:12〜17

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」……神の子、イエス・キリストが、十字架につけられて死ぬ前に、弟子たちと交わした最後のやりとりでこんな言葉が出てきます。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と。
 
非常にドラマティックなシーンです。イエス様と弟子たちの特別な関係、特別な呼びかけが見られます。一方で、ただ単に、美しい友情が描かれるシーンではありません。なぜなら、イエス様から「友」と呼ばれた弟子たちは、それから間もなく、敵に捕まったイエス様を見捨てて、皆逃げ出してしまうからです。
 
そうなることを知った上で、イエス様は語ります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」……おそらく、これを聞いた弟子たちは、イエス様のために命を投げ出す覚悟があるか、自分に問われていると思ったでしょう。彼らは口々に、自分は最後まで、イエス様についていくと答えます。
 
他の福音書では、弟子たちを代表してペトロがこう言っています。「御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)……事実、彼ともう一人の弟子は、イエス様が捕まったとき、隠れてあとをついていき、最後まで従おうとしました。しかし結局、敵に見つかって、イエス様を「知らない」と大声で叫んでしまいます。
 
数時間前に、「友」と呼んでくれたイエス様を、大勢の前で三度も否定し、「私はその人と関係ない」と言ってしまいます。福音書によっては、イエス様に対する呪いまで口にしたと書かれています。友が自分を愛してくれたようには、自分は友を愛せない……「互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉から、かけ離れている姿です。
 
ふと、疑問がわいてきます。イエス様はなぜ、そんな弟子たちのことを自分の「友」と呼んだんだろう? 自分を裏切り、あるいは見捨て、逃げていくことを知っているのに、自分のために、命を捨てないと分かっているのに、どうして「友」と呼んだんだろう? 彼らはイエス様の命じることを行わないし、愛を示すことができないのに。
 
確かに、イエス様は言いました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」……けれども、その言葉どおりなら、イエス様が「友」と呼ぶことのできる人は、一人もいませんでした。同時に、現在この言葉を聞く私たちも、自分がイエス様の「友」でいられるか、正直ドキッとしてしまいます。
 
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」……私にも、その愛を求められるなら「できます」と言える自信はない。むしろ、親友と呼べる友達のことでさえ、追い詰めたり、裏切ったり、愛せないことが度々ある。我が身かわいさに見捨てたり、無視したり、距離を置くことがけっこうある。
 
というか、自分のために、命を捨てることを要求する「友」ってどうだろう? 自分の命じることを行うのなら「友」と呼ぶってどうだろう? 下手すれば、イエス様の言葉は「お前、友達なら俺の言うこと聞けるよな?」という脅し文句に感じられます。あまり、良い印象を持てません。
 
実際、この言葉に苦しんできた信徒もいるでしょう。イエス様の命じることを行えなければ、「あなたは私の友じゃない」と言われてしまう。イエス様のために命を捨てることができなければ、自分を犠牲にできなければ、「本物の友じゃない」と責められる……そんなふうに、刷り込まれてきた人もいるでしょう。
 
だからこそ、思い出してほしいんです。イエス様が「友」と呼んだのは誰だったか、友の条件を満たした人だったか、振り返ってほしいんです……それは、まもなくイエス様を見捨ててしまう弟子たちです。まもなくイエス様を否定してしまうペトロです。葬儀にも埋葬にも立ち会わなかった彼らです。胸を張って「友」を名乗れない人たちです。
 
もう一人、思い出すべき人がいます。それは、イエス様を敵に引き渡すため手引きした裏切り者の弟子、イスカリオテのユダのことです。マタイによる福音書では、彼に向かって呼びかけた、イエス様の最後の言葉が出てきます。「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26:50)
 
後から記されたヨハネによる福音書も「この箇所を思い出せ」と言うかのように、ユダに対するイエス様の言葉が書かれています。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」そんな彼の手には、イエス様が「これはわたしの体である」と言われたパン切れに、「これはわたしの血、契約の血である」と言われた葡萄酒を浸したものが渡されていました。
 
本日、皆さんと一緒にあずかる聖餐式、信仰者が信仰者であり続けるための食事に、あのユダもあずかって出て行きました。それは、やがて来たる神の国で、イエス様の「友」が集まる祝宴を、先取りしたものでもありました。イエス様が「父の国で、あなたがたと共に新たに飲むその日」が来ると予告された、記念の食事……。
 
そう、キリストが「友」と呼ばれた人間は、自分の命じることを行えなかった、互いに愛し合うことのできなかった、ユダであり、ペトロであり、私であり、あなたでした。そのあなたに、イエス様はパンと葡萄酒を手渡して、神の国で、新たに飲むその日を待つよう言われました。私たちは、神の国で、また一緒に食事をするんだと。
 
思い出してください。イエス様の父なる神が、自分の民と呼ばれたのは誰だったか……それは、何世代にもわたって契約を破り、言うことを聞かず、神に背いてきた国民です。どの民よりも貧弱で、かたくなで、神を否定して、偶像を拝んでしまった人々です。けれども、神様はその言葉どおり、自分を否定する人々を滅ぼし尽くしはしませんでした。
 
滅びることのないように、改めて自分の民となるように、預言者を送り、王を導き、「わたしはあなたの神である」「あなたはわたしの民である」と呼びかけ続けてきたんです。もうとっくに、「神の民」とは呼べないはずの人々を「わたしの民」と呼んできたんです。わたしはあなたと共にいる……互いに愛し合う者となるように、私は付き合い続けると。
 
あなたは知らなければなりません。あなたの神、主が信頼すべき神であることを。神様が、あなたを自分の民と呼び、イエス様が、あなたを自分の友と呼んだことを。たとえ今イエス様の命じることが行えなくても、神様の言うことに従えなくても、天から送られる聖霊は、あなたが実を結ぶように、その実が残るように、付き合い続けてくださいます。
 
だから、神の国に受け入れられるか不安な者は、キリストの友を名乗っていいか不安な者は、今日、聖餐にあずかりなさい。あなたが従えないときも、あなたが背こうとしているときも、パンと杯を手渡してくる、神の招きに応えなさい。あなたは紛れもなく、神様が自分の民と呼び、キリストが自分の友と呼び、その食卓に座るよう定められた人間です。
 
ふさわしくない者はふさわしくされ、離れている者は呼び戻されます。どうか、信頼してください。どんなに自分の信仰に自信がなくても、疑い迷ってしまっても、神様は、あなたと出会い続けます。信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に変えていきます。弟子たちが新しくされたように、あなたも新しくされていきます。
 
最後の晩餐で、パンと杯を受けた直後、イエス様を見捨てた弟子たちに、復活したキリストは、再びパンを分けられました。あなたのために、感謝の祈りを唱えてパンを裂き、「取って食べなさい」と言われました。あなたが受け取ることを、誰よりも望んでいるのはこの方です。あなたを食卓に呼んだのは、この方です。共に恵みを味わいなさい。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。