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人から聞いて従った【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ヨハネによる福音書1:35〜51

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

どうして、イエス・キリストを信じるようになったのか、きっかけは話せても、理由は上手く言えない人が多いかもしれません。何を隠そう、牧師をしている私自身もその一人です。直接、神様の声を聞いたとか、イエス様の姿を見たのであれば、話は早いですが、そんな分かりやすい体験はしていません。
 
あるのはただ、イエス様について、神様について、ある時、この人から聞いた……礼拝へ誘われるようになった……それで、聖書を読んでみたり、教会へ行くようになった……それくらいの体験です。私の場合は、父や母、双子の弟がきっかけですが、皆さんはどうでしょうか? 
 
親から、子どもから、兄弟から、あるいは、パートナーや友人から、キリスト教について、教会について、聞くようになった。それで、ある時、自分も行ってみたことが始まりだった……たぶん、そういう話になることが、ほとんどだと思います。ちょっと不思議な経験や衝撃的なきっかけがあった人もいますが、大半は「誰かに聞いて」が始まりです。
 
実は、イエス様に従うようになった、最初の弟子たちの中にも、人から聞いて、イエス様を知り、会ってみるよう勧められ、信じていった人がいました。キリストの生涯を記した、4つの福音書には、それぞれ、イエス様から呼びかけられて、弟子になった人たちが書かれていますが、その中でも、ヨハネによる福音書は特殊です。
 
なぜなら、マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、イエス様から直接「わたしについてきなさい」と声をかけられ、従った様子が描かれますが、ヨハネによる福音書では、イエス様について「人から聞いて」従うようになった姿が描かれるからです。たとえば、最初に弟子となった2人は、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネがきっかけです。
 
2人は、イエス様が歩いているのを見たヨハネから「見よ、神の小羊だ」と2日連続で聞かされて、イエス様のあとをついて行きます。どうやら、この2人はもともと、洗礼者ヨハネの弟子だったみたいですが、ヨハネを置いて、イエス様について行きます。ヨハネから「その方はわたしにまさる」と聞いたからかもしれません。
 
他の福音書だと、最初の弟子たちは、漁師という仕事を捨てて、イエス様に従ったと書かれていますが、ここでは、自分たちの「ラビ」(先生)であったヨハネを捨てて、新しい先生についていったかのように記されます。こう言うと聞こえは悪いですが、2人の先生であったヨハネ自身も「あの方が神の子だ」と、ついていくよう促す様子が見られます。
 
もしかしたら、ヨハネが2日連続で、イエス様のことを「神の小羊だ」と繰り返したのは、2人が自分の目で見ても、イエス様が「全ての人を罪から救う神の子だ」とは、なかなか信じられなかったからかもしれません。ヨハネの後押しによって、2人の弟子は、イエス様について行き、振り返ったイエス様からこう言われます。
 
「何を求めているのか」……本来は、「私を弟子にしてください」という言葉が続くはずですが、2人から、そんな言葉は出て来ません。本当にこの人が神の子なのか? ヨハネから離れて、この人についていくのが正しいのか? 正面から聞く勇気も出てこなかったのかもしれません。イエス様が振り返るまで、自ら声をかけることもできませんでした。
 
さらに2人は、「どこに泊まっているのですか」という、ずれた返事をしてしまいます。けれども、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言って、自分が泊まっている家を教えました。すると、2人もイエス様のもとに泊まり、午後4時から朝まで一緒に過ごします。その時間帯なら、夕食も一緒にとったでしょう。
 
何か奇跡を見せられたわけでも、特別な体験をしたわけでもありません。ただ、一緒に泊めてもらっただけです。それなのに、2人のうちの一人、アンデレは、自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』――(救い主)に出会った」と言います。シモンは困惑したでしょう。
 
なぜ、その人をメシアだと信じるのか? どんな特別なことがあったのか? いったい何をしてもらったのか? でも、ご覧のとおり、アンデレがしてもらったのは、イエス様に泊まる場所を教えてもらって、一緒に過ごしただけです。彼自身、どうして自分の出会った方が、救い主だと言えるのか、兄弟に説明できません。
 
彼は、洗礼者ヨハネと違って、イエス様に「神の霊」が降るのも見ていませんでした。上手く説明できないアンデレは、とにかくシモンをイエス様のところへ連れて行き、会ってもらいます。すると、イエス様は彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われました。
 
ケファというのは、その地方で使われていたアラム語で、ギリシャ語だとペトロです。後に、弟子たちの中心的な人物となるシモン・ペトロも、人から聞いて、アンデレに連れて行かれて、イエス様と出会い、弟子たちの一人になりました。ちなみに、岩というのは聖書の中で、敵から身を隠したり、丈夫な家を建てる場所として、よく出てきます。
 
ところが、そんなふうに呼ばれるようになったペトロも、彼を連れてきたアンデレも、アンデレと一緒に居たもう一人の弟子も、イエス様に向かって、「わたしを弟子にしてください」とか「あなたに従います」と答えた場面は描かれません。実は、イエス様に従った弟子たちの返事は、どの福音書にも書かれていないんです。
 
それどころか、十字架にかけられて復活したイエス様が、再び弟子たちを訪れたときも「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」という呼びかけに、正面から答えた人はいませんでした「はい、従います」「あなたの弟子にしてください」と、自分から口にできた弟子はいませんでした。
 
弟子たちの「信仰告白」自体、実はとても少ないことに気づかされます。不思議ですよね? 「イエス様に従う」って、そんなはっきり、分かりやすく、こういうことができたらOK……と言えるものじゃないんです。むしろ、これもあれもできていなかった人たちが、イエス様に従った者として、キリストの弟子になった者として、出てくるんです。
 
ナタナエルに至っては、フィリポから、ナザレ出身のイエス様のことを聞いて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と馬鹿にしてしまう人物でした。彼にイエス様のことを伝えたフィリポも、この方こそ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方だ」と言いますが、なぜ、そう信じたのか、上手く説明できません。
 
否定的な友人に「来て、見なさい」と言うのがやっとです。実は、最初の弟子たちも、自分がどうして教会へ行くようになったのか、どうして神様を信じるようになったのか、一生懸命説明しようとするも上手くいかず、「教会に来てみて」というのがやっとの私たちと、そんなに変わらなかったんです。
 
特別な言葉も、特別なエピソードも持っていません。みんな不器用に「来て」「見て」と言うしかありませんでした。最初から、自分の信仰を上手く説明できたわけでも、納得してもらえたわけでもありませんでした。人から聞いて信じるのも、人に信じてもらうのも簡単にはできませんでした。
 
でもそれが、最初の弟子たちです。イエス様に従った12弟子の姿です。もしかしたらあなたもまた、イエス様に「わたしを弟子にしてください」と言えず、「従います」と答えられず、自分をどう呼んだらいいのか分からない、求道者の一人かもしれません。しかし、イエス様は振り向いて、あなたを自分のもとへ招き、新しい名前で呼ばれます。
 
もしかしたら、あなたもまた、自分が出会ったイエス様のことを、家族に、友人に、上手く説明できなくて、ちゃんと伝えられなくて、納得してもらえない人間の一人かもしれません。しかし、イエス様は、あなたが連れてきたい人のことも、あなたより前から「見て」います。あなたが連れてきたい人と、出会う準備をしています。
 
あなたが何かを果たせば、キリストの弟子になれるのではありません。もう既に、あなたはキリストの弟子として呼びかけられ、受け入れられ、送り出されているんです。見なさい、この方が神の子羊です。見なさい、この方があなたを呼んだ方です。見なさい、あなたがキリストの証人です。平和の使者として、行きなさい。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。