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金持ちは救われない?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 ルカによる福音書16:19〜25、ヤコブの手紙2:1〜9

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

貧しい人々は救われ、金持ちは救われない……聖書には、そんな物言いが、たとえ話がけっこうたくさん出てきます。もともと、この世で財産に恵まれること、裕福になることは、神様に祝福された証として受け取られていました。たくさんの財産に恵まれた、アブラハムやイサク、ヤコブの他にも、ダビデやソロモンなど、事例はいくつも出てきます。
 
ところが、イエス様は弟子たちに、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言ったり、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言ったりします。天の国の宴席に、できものだらけの貧しいラザロは招かれて、金持ちは宴席に着けないたとえを語ります。ヤコブの手紙にも、神の国を受け継ぐのは、富んでいる者ではなく、貧しい者だと書かれていました。
 
「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった……」一方で、金持ちは貧しい人々を辱め、信仰者を酷い目に遭わせ、裁判所へ引っ張っていくと糾弾されています。確かに無実の人を陥れたり、弱っている人を辱めたりする悪人が、そのまま救われたら嫌でしょう。
 
けれども、ヤコブの手紙を受け取った教会の人々は、果たして、教会へ来た金持ちから酷い仕打ちを受けていたんでしょうか? むしろ、会堂建築や修繕費用、教師の謝儀や伝道費など、助けてもらうことの方が多かったんじゃないでしょうか? 使徒言行録に描かれる初代教会も、たいてい、裕福な商人や貴婦人に助けられています。
 
そんな中、金持ちが救われないたとえ話や、富んでいる者を悪人のように語ることは、ちょっと気まずい感じがしてきます。もし、今日の礼拝に、市長や社長がやって来たら、議員や資産家がやって来たら、居心地を悪くさせないか心配になってくるでしょう。あるいは、自分が金持ちに見られたら、裕福に見られたら嫌だな……と感じてくるでしょう。
 
イエス様の言うとおり、金持ちが天の国に入るのは難しいなら、富んでいる者が救われることはできないなら、全ての財産を売り払って、献金しなければならないんでしょうか? 確かに、それを勧めているように聞こえる箇所も出てきます。しかし、それでは、どこかの宗教カルトと一緒です。搾取するだけの霊感商法になってきます。
 
また、神様は貧しい人たちを敢えて選んで、信仰に富ませ……と出てきますが、現実はどのように見えるでしょうか? 貧しい人たちも、裕福な人たちと同じく、良い人もいれば、悪い人もいます。礼拝中に、なけなしの硬貨をささげる人もいれば、献金箱から金を取って、ポケットに入れる人もいます。
 
静かに話を聞く人もいれば、酒に酔って礼拝を邪魔する人もいます。教会でたくさんの人に助けられ、信仰に導かれる人もいれば、裏切って、トラブルを起こし、逃げていく人もいます。単純に、貧しい人は信仰に富んでいるとも、裕福な人は信仰が欠けているとも言えません。
 
実際、イエス様のたとえ話も、貧しい者と金持ちが、綺麗に分断された話じゃありません。財産に恵まれ、裕福だったことで有名なアブラハムが、貧しいラザロと一緒に、宴席に着いている……「繁栄した者」の代名詞であるアブラハムが、天の国の宴席についている。どうやら、単純に金持ちが悪者にされているわけじゃなさそうです。
 
実は、金持ちとラザロのたとえ話は、この世で貧しかった者と裕福だった者が対比されているように見えますが、財産に恵まれた者同士である、アブラハムと金持ちの対比になっているんです。アブラハムは、貧しかったラザロを自分のすぐそばへ招き、一緒に食卓へ着きますが、金持ちは最後まで、ラザロと直接話そうとしませんでした。
 
自分からラザロへ話しかけたり、お願いしたりすることはなく、終始、アブラハムにだけ話しかけ、アブラハムからラザロへ命じてもらうように頼みます。どこまでも、ラザロと関わろうとしない、彼の態度が露わにされます。ヤコブの手紙が送られた教会も、みなしごや、やめもが困っているのに、何もしないで無視していることが問題にされました。
 
身なりの整った裕福な人は、礼拝の席へ案内するのに、汚らしい服装の貧しい人は、礼拝の席へ案内せず、「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言ってしまう、誤った態度がありました。なぜ、彼らを案内しないのか? なぜ、彼らを無視しているのか? あなたたちの隣人とは、彼らのことではなかったか?
 
手紙の著者は、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に触れて、イエス様が語った善いサマリア人のたとえを思い出させます。あなたは、強盗に襲われて倒れている人を、無視して通り過ぎる祭司やレビ人にならうのか? それとも、民族間で争いながらも、倒れたユダヤ人を憐れに思って助けてくれた、サマリア人にならうのか?
 
今日は、世界聖餐日でもあります。聖餐式は、信仰者が信仰者であり続けるための式であり、世界聖餐日は、世界中の教会が、聖餐を通して、キリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されたものです。実は、この背景には、ソビエトとアメリカを筆頭にした、東西の冷戦がありました。
 
ソビエトの側につくのか、アメリカの側につくのか、共産主義に立つのか、資本主義に立つのか……その対立を前にして、互いに声をかけられない、互いに手を取り合えない関係が、キリスト教会の中でも起こっていました。同じ信仰を持っているのに、話しかけない、支え合わない、無視してしまう。
 
そんな中、自分たちの違いを盾にしないで、「隣人とは誰か」「隣人になるとはどういうことか」教えてくれたイエス様を思い起こそう。もう一度、みんなで食卓を囲もう。人を分け隔てなさらない、神様の愛を分かち合おう……そうやって、続いてきた聖餐に、今年もあずかろうとしています。
 
貧しい者か、富んでいる者か、異邦人か、ユダヤ人か、初めて来た人か、ずっといる人か、同じ教派か、違う教派か……私たちの間には、いくつも隔たりがあるように見えますが、あらゆる隔たりを揺り動かし、叩き壊し、和解と平和をもたらす神様が、これまでもこれからも、私たちを新たにしていきます。
 
「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:23)そう、私たちは一つです。一つになり得ない民を、一つにしてくださる神様が、ずっと間に立っています。
 
さあ、用意された食卓を囲み、信仰を新たにされ、祝福を分かち合いましょう。公に、信仰を告白してない方も、私たちから良い知らせを受け取ってください。あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように。あなた自身も、天の国、神の国で宴席につくその日まで、希望を持って、待ち望むことができますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。