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自分を救えない人へ【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書23:32〜43

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》自分を救えない人へ

キリストが受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節、第6週目を迎えました。今日から、イエス様が殺されるまでの最後の一週間を振り返る「受難週」に入ります。皮肉なことに、イエス様が殺される6日前の日曜日、エルサレムにいた人々は、あちこちで病人を癒し、神の国について教えてきたイエス様を、大喜びで迎えました。
 
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。これに加えて、他の福音書では「ホサナ」という言葉もイエス様にかけられています。「ホサナ」というのは「どうか救いたまえ」「救ってください」という意味のヘブライ語で、神様に向かって「ばんざい!」と叫ぶような言葉でもありました。
 
この日、人々から王として、救い主として、「ばんざい!」と出迎えられたイエス様は、一週間も経たないうちに、祭司長や律法学者の扇動によって、「その男を殺せ」「十字架につけろ」と叫ばれるようになってしまいます。何も悪いことをしていないのに、2人の犯罪人と一緒に、十字架を担がされ、服を剥ぎ取られ、死ぬまで磔にされてしまいます。
 
絵に描いたような理不尽です。そんな中、議員たちは嘲笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」兵士たちも言いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」さらに、一緒に磔にされた犯罪者にまで言われます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。
 
自分のことも救えないのに、神から遣わされた救い主だと言えるのか? 神の子なら、自分自身を救えるはずだ。自分を救えずして、神の国の王と言えるのか? そんな問いかけが続いていきます。確かに、今まで多くの人の病気を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静め、パンを増やし、死者も生き返らせてきたのに、自分は救えないなんておかしく感じます。
 
自分を救えなかったら、その力は本物ではないんじゃないか? 完璧ではないんじゃないか? それこそ、完全な信仰ではないんじゃないか? 信仰があれば、救われるんじゃなかったのか? イエス様自身、自分が助けてきた相手にこう語ってきました。「あなたの信仰があなたを救った」と。
 
でも、自分自身は十字架につけられ、命を落とそうとしています。自分を救えない者の信仰は、誰が認めてくれるんでしょう? 救われなかった者は、苦しみ続けた者は、信仰が足りなかったんじゃないか? 神に見捨てられたんじゃないか? そんなふうに感じるものです。「わたしの信仰では、わたしを救えなかった」というふうに。
 
頭の中に「神の子失格」「救い主失格」という文字が浮かんできます。エルサレムにいた人々も、自分を救えない姿をさらすイエス様を侮辱しました。本物じゃない……と。私たちも、選ばれた者なら、神様に遣わされた者なら、自分の身に起きた困難は、特別な力で何とかできる、逆境を跳ね返せるはずだ、というイメージが何となくあります。
 
実際、神様に遣わされ、信仰によって困難を乗り越えてきた人たちがいるじゃないか。彼らのように、苦難を耐え忍び、苦境を乗り越え、救われてきた者たちこそ、本物の信仰を持った、神に愛されてきた人たちじゃないかと。でも、思い出してください。これまで神様に選ばれ、遣わされてきた人々を。聖書に書かれている王や、祭司や、預言者たちを。
 
たいてい、自分の身に起きた困難を、自分でどうにかできない人たちでした。イスラエルの指導者モーセは、神に選ばれたにもかかわらず、民衆の支持を得られないで、何度も殺されそうになりました。イザヤをはじめとする預言者は、神の言葉を直接聞いていたにもかかわらず、民衆を悔い改めさせることは、ほとんどできませんでした。
 
神の言葉に従って、政治と宗教の改革を進めたヨシヤ王も、敵の侵攻を止めようとしてあっさり殺されてしまいました。祭司長、律法学者、議員はもちろんのこと、イスラエルの誰もが尊敬し、模範としている「神に選ばれた者たち」は、いずれも、自分で自分を救えたとは言えない姿を見せていました。
 
そして、神の子自身、「自分を救えない姿」を人々の前にさらしました。確かに、癒しや奇跡を行う力を持っていたのに、自分の身にふりかかった苦しみから、逃れられない姿を見せました。それは、多くの人が、信仰のない、完全でない、神に愛されてない、そのまま滅んでいく証だと思っていた姿です。
 
しかし、神様は、このイエス様を指して「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んできました。「これはわたしの子、選ばれた者」と語ってきました。そして、自分で自分をどうにかできない者たちへ、イエス様自身が言いました。「あなたの信仰があなたを救った」と。自分を救えないあなたの信仰を、神様はちゃんと受け取っていると。
 
見なさい、私もあなたのように叫ばれた。「自分自身を救ってみろ」と。見なさい、私もあなたのように叫んだ。「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と。同じように叫び、同じように叫ばれた人たちも、皆、私の兄弟姉妹である。信仰を失った人、神に見放された人、そのまま滅んでいくと思っている、思われている、あなたやあなたの大切な人も、私と一緒に神の子とされている。
 
もしかしたら、「自分を救ってみろ」とイエス様に叫んだ人たちの言葉は、単なる侮辱ではなかったのかもしれません。私たちの多くは、自分を救えません。誰かを助けることがあっても、自分自身を助けられるわけではありません。他人の相談には乗れても、自分の問題には上手く向き合えなかったりします。
 
生徒に慕われている教師が、自分の子どもとは上手くいっていなかったり……病院で働いている先生が、自分の健康は管理できなかったり……聖書を教えている牧師が、自分の信仰は度々揺らいだり……自分で自分をどうにかできない姿から、私たちは逃れることができません。
 
自分を救ってみろ。他人は何人か救えても、自分は救えないだろう? ほら、私と一緒じゃないか。私と同じ、自分を救うことのできない、神に認めてもらえない、つまらない人間の一人じゃないか。だから期待させないでくれ。あなただけ、自分を救うことができる者に、神様に認められる者になるなんて、私を置いて行くなんてこと、しないでくれ。
 
自分を救えない者の信仰は、誰が認めてくれるのか? 最初に、そんな問いかけがありました。私たちは、自分を救えないことが、神様に認められてない、信仰が足りてない、愛されていない証拠だと強く刷り込まれています。神様から程遠い姿だと思ってしまいます。けれども、神の子ご自身が、信仰を失って絶望する人たちと同じ叫びを挙げました。
 
「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と。同じように叫んだ人たちと、イエス様は同じところへ行きました。自分を信じないまま亡くなった者とも、自分を裏切って絶望した弟子とも、自分を救えなかった数多の人とも、そこで再び出会ったでしょう。陰府に下り、彼らを連れて、神の国の食卓へ共に着くよう導いたでしょう。
 
イエス様は、自分を見捨てた者の信仰も、裏切った者の信仰も、拒んだ者の信仰も、認めない方ではありません。失ったままにしておかれません。もはや自分は救えない、自分のやったことの報いを受けていると思った犯罪人にも「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださいます。神の国へ一緒に入る者として、あなたの名前を呼ばれます。
 
キリストの復活を記念するイースターまで、あと一週間。あの日、陰府の底まで、あなたへ会いに来られたイエス様を、あなたを連れ出しにきたイエス様を、今、心の中に迎えましょう。あなたの信仰を受けとめ、あなたを救われるキリストへ、賛美と祈りをささげましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。