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互いに重荷を担いなさい【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 サムエル記上24:14〜21、ガラテヤの信徒への手紙6:1〜10

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

互いに重荷を担いなさい……パウロの手紙に出てくる言葉は、こんなふうにも受け取れます。相手のために苦しみなさい……自分は相手のために苦しみ、相手も自分のために苦しむ。互いに重荷を担い合って、苦しみを分かち合って、歩みなさい。そのようにしてこそ、キリストの教えを全うすることになる。
 
言葉としては、理解できます。けっこう色んなところで聞く話です。自分のためだけに生きるのではなく、みんなのために、お互いのために生きなさい。そうすれば、あなたもみんなも幸せになれる。でも、自分の重荷さえ背負えない、弱って、傷ついて、潰れかけた人たちもいます。今まで散々、周りに重荷を背負わされ、立っていられなくなった人。
 
私たちはよく見聞きします。重荷を背負う人、背負わされる人、一方的に背負わせる人……何が難しいって、「互いに」重荷を担うことです。重荷を担う人はいます。でも、その人が背負った重荷を、相手も、周りも、背負ってくれるとは限らない。子育てを担うのは自分だけ、介護を担うのは私だけ、責任を取るのはいつもこっち……。
 
相手のために、みんなのために、重荷を担うことが正しいんだと言い聞かせ、一生懸命背負ってきた。でも、相手も同じように、周りも同じように、重荷を背負うことはしてくれなかった。ひたすら自分が背負い続け、立っていられなくなってしまった。これ以上、みんなの重荷は背負えない、自分の重荷も背負えない、全部放り投げてしまいたい。
 
どうして、私にばかり負わせるんだろう? なぜ、一緒に背負ってくれないんだろう? なんで、互いに担えないんだろう? こんなのは間違っているし、正さなきゃならない。でも、どれだけ言っても、聞いてくれなかった。あるいは、言えるような関係にならなかった。そんな中、パウロの言葉が聞こえてきます。
 
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」……いや、無理ですって! 私もう、今背負っている重荷で、いっぱいいっぱいなんですよ。この人を、周りを、柔和な心で立ち帰らせるなんて、それこそ、背負いきれない話です!
 
誰かの悲鳴が聞こえてきそうです。実は、ガラテヤの教会でも、一方的に、重荷を負わされている人たちがいました。それは、異邦人の信徒です。初期のキリスト教会では、ユダヤ人と比較して、異邦人の信徒の方が、食事の配給や分配も後回しにされがちでした。食事の世話をする人も、異邦人ばかりが選ばれました。奉仕の要求に差がありました。
 
そういえば、現在でも、多くの教会でバザーや食事の準備を行うとき、ほとんどは女性が担っています。おにぎりが、デザートが、みんなに行き渡らないかもしれない……というときに、譲ろうとするのも、だいたい女性です。礼拝の受付も、墓苑の掃除も、だいぶ女性に偏っていますよね? 互いに重荷を担えているか、改めて訴えかけられます。
 
ガラテヤの教会ではさらに、異邦人もユダヤ人の慣習に合わせて、モーセの律法に従うことが求められました。自分たちが古くから従ってきた伝統に従わないと、神の子として認められず、救われないと教えている「偽教師」がいたからです。文化も生活スタイルも、全部一方に合わせなさい、と言われたら、一方にかなりの負担がかかるでしょう。
 
しかし、ガラテヤの教会では「自分たちは他とは違う」「キリスト者として神の霊を与えられている」という自負を持つ人が多くいました。ローマ帝国に支配された、異邦人だらけのこの土地で、こんなにも他と違う生き方をしている。何を食べるか、何に触れるか、細かく気を遣っている。私たちこそ霊的な人で、神の子として救われる側の人間だ、と。
 
だから、ある意味、パウロの言葉は皮肉を込めて語られます。「“霊”に導かれて生きているあなたがたは」と……本当に、霊的に成熟しているのなら、神の子として生きているなら、「互いに」重荷を担っているはずだ。一方に重荷を背負わせて、負担をかけさせて、気に留めないで満足しているわけがない、と。
 
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」……なぜなら他人のために自分は背負っていないからです。自分のためには背負っていても。
 
最初に読んだサムエル記で、これに気づかされた人が出てきます。他ならぬ、イスラエルで最初に王となった、あのサウルです。奇しくも、手紙を書いたパウロ自身のヘブライ語名「サウロ」も、彼から来ていると言われています。サウルは、ダビデに竪琴を弾いてもらったり、敵を倒してもらったり、長年、自分のために尽くしてもらっていました。
 
しかし、ある時から、自分よりも讃えられるようになったダビデを妬むようになり、王位が奪われるのを恐れ、戦況が厳しい陣地へ送って殺そうとしたり、家臣に殺害を命じたりします。神様がダビデを新しい王に選んだことを知りながら、「王は自分であってダビデじゃない」「自分こそ、この国の王なんだ」と、自らを欺いて突き進みます。
 
ところが、そんなサウルに対し、ダビデは悪事も反逆も行わず、むしろ、自分の兵から彼を守って庇います。私はあなたの命を守ったけれど、あなたは私の命を奪おうとしていると訴えます。そのとき、サウルは声をあげて泣き、自分はダビデのために重荷を背負わなかったのに、ダビデは自分のために重荷を背負い続けてきたと告白しました。
 
「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」……互いに重荷を担うというのは、自分が重荷を担えていないと認めることから始まります。相手に重荷を負わせてきたと、気づくことから始まります。

パウロと呼ばれるようになったサウロもそうでした。自分こそ、一生懸命、掟を守り、自分こそ、神の国に受け入れられる人物だと思っていました。しかし、どんなに一生懸命掟を守っても、「互いに」重荷を担うことにはなりませんでした。自分のために担っているだけでした。むしろ、迫害していたキリスト者に、大きな重荷を背負わせていました。
 
彼は、それを認めることから、新しい生き方が始まります。本当に、神から霊を与えられた人として、キリスト者として、生きていく道が始まります。それは、重荷を背負えていなかった、むしろ重荷を背負わせていた、自分自身の姿を告白しながら、みんなと歩いていく道です。
 
私があなたに背負わせてきた、重荷を下させてください。「こうしなければ救われない」と言ってきた、私の過ちから解放させてください。新しく、イエス・キリストの軛につながらせてください。あなたへ一方的に背負わせない、あなたを犠牲にし続けない、イエス・キリストの生き方に、ならう者として歩ませてください。
 
だから、あなたも聞いてください。自分だけが背負っている重荷は下ろしてください。互いに重荷を担うために、負えない重荷を認めてください。そして、一緒に担える重荷を探してください。初代教会も、そうしてきたように。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。