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死んでも生きる?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 創世記3:1〜5、ヨハネによる福音書11:17〜27

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリスト教を信じていたのに、若くして亡くなった人……熱心に教会へ通っていたのに、病気が悪化し、息を引き取った人……家族も必死に祈っていたのに、回復しないまま召された人……そんな現実を目の当たりにする私たちは、聖書に出てくる、神の子、イエス・キリストの言葉に、ショックを受けてしまいます。
 
「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」……目の前に、亡くなった人の写真があります。信仰を告白し、洗礼を受けて、教会員として歩んだ人もそこにいます。見てのとおり、この人たちはもう死んでいます。「決して死ぬことはない」と言われたのに、イエス様を信じて、亡くなっています。
 
真の信仰を持っていれば、亡くなることはなかったのか? もっと長生きできたのか? 思わず詰め寄りたくなります。この人の信仰は、本物じゃなかったと言うんですか? 生きている間に、十分な信仰を持てなかったと言うんですか? それとも、体は動かないけれど、意識はあるとでも言うんですか? もう骨と灰しか残ってないのに。
 
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」……イエス様の言葉は意味不明です。どう見ても、死んでいる人を前にして、私たちは混乱します。亡くなった兄弟ラザロが「復活する」と言われた、妹マルタも、混乱しながらこう返します。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております……」
 
世の終わり、終末の日に、神の国が到来するとき、古い世界にいた私たちは、新しく、完成された天の国に導かれる。その時、死んでいた者は復活し、新しい体に甦って、天の国に受け入れられる……ようするに「天国に迎えられる日に、死んだ兄とも再会できると私は承知しています」と、賢いマルタは答えます。
 
目の前の死は受け入れましょう。それが正しいことですよね? 妹のように、現実を受け入れられず、泣き続けても、しょうがありません。今すぐ甦らせてくれと言ったって、叶えられるわけありません。愚かで我儘な願いではなく、正しく賢い態度に切り替えて、現実を受け入れる努力をします。そうじゃないと、神様にも、周りにも、迷惑ですよね?
 
マルタの忖度を感じます。もしかしたら、ここに集まった人の中にも、大切な人の死を受け入れないことは、不信仰だと感じる方がいるかもしれません。神様のもとへ行ったのに、いつか天国で会えるのに、それを受け入れられず、まだ、この世で会わせてほしいと願うなんて、神様を困らせるだけだ……そんな思いをぶつけちゃダメだと。
 
ところが、イエス様は容赦なく、大切な人に生き返ってほしいと願う人の心を揺さぶります。「あなたの兄弟は復活する」……それって、終わりの日、天の国に入るときのことですよね? と遠慮がちに言うマルタにも、追い討ちをかけてきます。「わたしは復活であり、命である。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない……」
 
「このことを信じるか?」と問われるイエス様は、マルタに何を期待したんでしょう。マルタは正面から「はい、わたしの兄弟ラザロが復活することを信じます」とは言えません。「わたしの兄弟が生きていることを信じます」とも言えません。死後、4日も経っていて、もう腐敗が始まっています。「生きている」と言わせるなんて酷なことです。
 
マルタは「ラザロの復活を信じます」とイエス様へ答える代わりに、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。でも、おそらく、イエス様が聞きたかったのは、そんな、お行儀のいい返事ではありませんでした。イエス様はこの後、マルタの妹、マリアとも出会います。
 
彼女もまた、「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えますが、姉と同じく、イエス様に「わたしの兄弟を生き返らせてください」とは頼めません。彼女を慰めていた周りの人も、一緒に泣きながら言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか……」
 
けれども、その場で「ラザロを生き返らせてほしい」と言い出す者はいませんでした。みんな、「まだ生きているうちに、死なないようにしてほしかった」と言いました。しかし誰も、「ラザロを生き返らせてください」とは言えませんでした。そんなこと頼んでいいとは、願っていいとは、思えませんでした。
 
そもそも、ラザロとイエス様は、どんな関係だったんでしょう? イエス様も、ラザロのお墓へ案内される途中、興奮して涙を流されます。それを見て、周りの人も「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いますが、実は、イエス様とラザロの絡みは、ほとんど聖書に記されません。
 
妹のマルタとマリアの話は出て来ますが、ラザロがイエス様と話すシーンやイエス様の教えを聞くシーン、イエス様を信じるシーンは出てきません。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言うものの、ラザロがイエス様を「神の子」「救い主」「メシア」と信じる様子、告白する様子は、一切描かれませんでした。
 
書こうにも、書けなかったのかもしれません。マルタとマリアが「イエス様なら助けてくれる」と信じていた一方で、ラザロ本人は、懐疑的だったのかもしれません。もしくは既に寝たきりで、意識がなかったり、意思疎通ができなかったり、まともな状態ではなかったのかもしれません。
 
マルタが「あなたの兄弟は復活する」「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエス様に言われても「主よ、兄の復活を信じます。ラザロを生き返らせてください」と言えなかったのは、彼女自身、自分の兄が「イエス様を信じる者」と言えるのか、自信がなかったからかもしれません。
 
「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると“わたしは”信じております」という言葉からも、そんな含みが感じられます。兄が、ラザロが、信じていない者だったら、信じないまま死んだ者なら、結局、生き返らせてもらえない。イエス様を信じていなかった、懐疑的だった人間を、生き返らせてほしいなんて、本当に願っていいんだろうか?
 
ただでさえ、小さな約束も守れない、度々嘘をついてしまう、愚かな「罪人」に過ぎない私たちが、そこまで願っていいんだろうか? マルタだけでなく、マリアも、一緒に来た人たちも、ラザロの死を悔やみながら、誰も、ラザロのために、自分のために、「彼を生き返らせてほしい」とイエス様に頼めません。
 
イエス様が心に憤りを覚えたのは、誰一人、彼の復活を願えなかった、この状況だったのかもしれません。みんなの中で、ラザロは死んだままでした。生き返ることのない人でした。「信仰によって生きている」と、確信を持てない人でした。けれども、イエス様は彼らの前で宣言します。ラザロが生きていることを、彼が復活することを。
 
「ラザロ、出て来なさい」……イエス様が大声で叫ぶと、彼はその呼びかけに答えて、墓の中から出て来ます。今まで一度も、イエス様とのやりとりが描かれなかった、イエス様の教えを聞く様子も、イエス様に従う様子も記されなかった、あのラザロが、自らイエス様に答えて出て来ました。ラザロの復活を願えなかった人たちに、光が差しました。
 
きっと、教会では、信仰深い人として、真面目で敬虔な人として、尊敬された人たちも家族の中では、尊敬できないこともあったでしょう。神様に、イエス様に、従っているとは思えない態度もあったでしょう。また、生きている間に、教会へ来ることも、洗礼を受けることも、信仰を告白することもなく、亡くなった身内もいるでしょう。
 
しかし、そんな一人一人と、イエス様は関係を結ばれます。私たちの目に、はっきりと信じた様子が見えなくても、確信を持って従ったように見えなくても、神の子、メシアは「あなたの兄弟は復活する」と宣言してくださいます。「この人を生き返らせてください」「新しい命を与えてください」と、私たちが願うことを促します。
 
自分自身が信じ切れてはいないから、亡くなった故人が信仰者ではなかったから、神様に、救いを求めて祈ることを、ためらっている人たちへ、今日改めて伝えます。「あなたの兄弟は復活する」……イエス様は、あなたの兄弟、姉妹を起こしに来ます。あなた自身も起こしに来ます。その日が来ることを信じなさい。希望を持ちなさい。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。