見出し画像

救われなかった人?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録28:21〜31

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 新約聖書に数々の手紙を残した宣教者パウロは、各地で迫害に遭いながらも、イエス様の教えと業を宣べ伝え、ついに、ローマ帝国の首都までやって来ました。ただし、囚人として見張りをつけられた状態で、皇帝に上訴しに来た被告として、重い鎖につながれた上で、伝道しなければなりませんでした。

 それは、イエス・キリストを神の子と認めず、パウロのことを「神殿や律法を蔑ろにし、あちこちで騒動を引き起こした」と主張する一部のユダヤ人によって、逮捕され、訴えられ、陥れられたからでした。彼は、小アジアでも、ギリシアでも、命懸けで訪れたエルサレムでも、ユダヤ人から拒絶され、受け入れてもらえませんでした。

 時間をかけて、イエス様の教えと業を伝えても、重い病気や悪霊に苦しむ人を助けても信じてくれないユダヤ人から、何度も反対に遭ってきました。そんな中、皇帝をはじめとするローマ人に、キリストを証しするためやって来たパウロは、再び、町の主だったユダヤ人を招き、イエス様が神の子、救い主であることを語っていきます。

 既に、パウロはユダヤ人に対し「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ」「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と宣言していましたが、結局、その生涯の、最後の宣教旅行でも、見放したはずのユダヤ人たちへ会いに行きます。幸い、彼が呼びかけたユダヤ人たちは、他のユダヤ人から、まだ何も吹き込まれていないようでした。

 パウロのもとへ来たユダヤ人の一人がこう言います。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりません」「また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありません」……しかし、これは何だか奇妙です。

 これまでの記事によると、パウロがエルサレムで逮捕され、カイサリアで投獄されてから、2年以上が経っているはずでした。パウロを訴えたユダヤ人たちは、パウロを暗殺するためにエルサレムで裁判を起こそうとしたり、カイサリアの総督に掛け合ったり、色々と政治的な動きも見せていました。

 当然、パウロが皇帝に上訴して、ローマへ連行されることも、耳に入っていたはずで、ローマにいるユダヤ人たちへ、何の根回しもしていない、というのは、正直、考えられません。本来なら、パウロがローマへ到着した頃には、ローマにいるユダヤ人たちも、彼についての悪評を吹き込まれ、彼を捕えるために待ち構えているはずでした。

 ところが、ローマのユダヤ人たちは、エルサレムのユダヤ人から、何の書面も受け取っておらず、パウロについて悪い報告は聞いていないと語ります。「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい」と言ってきます。この分派については、至るところで反対があるのを知っているにもかかわらず、聞く耳を持っていることが明かされます。

 どうやら、パウロに対し、ユダヤ人ではなく異邦人のもとへ証しに行くよう命じた神はそれでもなお、ユダヤ人の間に「聞く準備」をさせていたようです。ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎へやって来るようになりました。使徒言行録における、パウロの最後の説教は、異邦人への説教ではなく、ユダヤ人への説教で締め括られます。

 しかし、ローマのユダヤ人たちも、すんなり、イエス様を信じたわけではありません。ある者はパウロの言うことを受け入れましたが、他の者は信じようとしませんでした。さらに、彼らは「互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」とあるので、最終的にパウロの言うことを受け入れた者まで、彼のもとから立ち去ろうとしたことになります。

 そこで、パウロから彼らに対し、決別の言葉が語られます。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』

 実は、イエス様も、預言者の言葉を引用して、同じことをユダヤ人たちに語っていました。もちろん、パウロとイエス様が、言葉を引用した預言者も、こう言っていたわけですから、神の民として選ばれたはずのユダヤ人たちは、何度も、何度も、神様の言葉を信じない、受け入れないことが、非難されてきたわけです。

 そして、パウロは最終的にこう言い残します。「神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」……言い換えると、ユダヤ人のことはもう知らない、あなたたちは神に聞き従わないから、救いを向けられなくなった……そういうふうにも聞こえてきます。

 最終宣告……裁判における判決文が読み上げられるような展開です。皆さんはこれを聞いて、ショックを受けるかもしれません。神様が「いやさない」と宣言した人たち、救いを向けなくなった人たちが存在するなら、私たちはどうだろう? 大切なあの人はどうだろう? もう救われない、もう手遅れと言われる人たちがいるんだろうか?

 けれども、パウロが引用した預言者の言葉は、私たちもよく知っている、ある人物を彷彿とさせます。「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」「心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」「こうして……目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない」……いったい誰のことでしょう?

 そう、これって、パウロ自身の姿です。彼は、イエス様の教えと業を聞いていました。聞いた上で反対し、イエス様を神の子と認めず、イエス様を信じる人々を死刑にするため捕まえていました。聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない人でした。

 さらに、復活したキリストの幻と出会い、その場で光に照らされて、目を見えなくされてしまいました。こうして、目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解しなかった人の姿が、パウロを通して露わにされました。実は、復活したイエス様と再会した他の弟子たちも、同じ姿を晒しました。

 墓から出て来たイエス様に会い、声をかけられたにもかかわらず、振り返って顔を見たにもかかわらず、イエス様だと気づくことなく、泣き続けていた女性がいました。エマオの村へ行く途中で、復活したイエス様の顔を見て、一緒に話をしたにもかかわらず、イエス様だと悟らなかった弟子がいました。

 やがて彼らは、自分たちのために、イエス様が感謝の祈りを唱えてパンを裂き、分けてくれる様子を見て、ようやく、復活したイエス様だと気がつきます。しかし、その瞬間、彼らの目にイエス様の姿は見えなくなり、どこへ行ったか分からなくなっていました。こうして、目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解しなかった弟子の姿が露わにされました。

 彼らは聞き従わなかった結果、目で見て、耳で聞いて、理解しなかった結果、救いにあずからなかったでしょうか? もう手遅れだったでしょうか? 違います。救いは異邦人に向けられましたが、その救いは彼らを通して実現されます。目で見て認めなかったパウロは、再び見えるようにされ、キリストを知る者となりました。

 目で見て悟らなかった弟子たちは、再びイエス様に出会い、キリストを証しする者となりました。聞き従わなかった者たちは、聞き従わないまま、放置されませんでした。パウロも、弟子たちも、ユダヤ人から、天の国に国籍のある者へ変えられます。救われない者ではなく、救いを分かち合う者へ変えられます。

 「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」……この言葉は、聞いた者たちに訪れる未来であり、パウロや弟子たちが体験してきたことでもあります。聞いて理解しない者には、理解するまで語り続け、目で見て認めない者には、認められるまで出会い続ける方がいます。

 心が鈍くなり、耳が遠くなり、目を閉じてしまった人たちへ、心と耳と目を開き、再び見えるように祈ってくれる隣人を、遣わす方がおられます。パウロがそうだったように、弟子たちがそうだったように、私たちがそうだったように、神様は、立ち帰らない者に、立ち帰る道を作ってくださいます。

 だから、安心して行きなさい。これは、あなたに与えられた希望です。あなたにもたらされた知らせです。あなたも、救いを告げ知らせる者として、キリストの平和の使者として行きなさい。アーメン。

ここから先は

0字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。