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私はこの方を知らなかった【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 イザヤ書42:1〜9、ヨハネによる福音書1:29〜34

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

2024年1月1日、元旦礼拝が終わって一息ついた頃、石川県能登半島で、震度7の地震が発生し、岐阜県でも飛騨高山で、震度5弱の揺れが発生しました。幸い、同じ地区の飛騨高山教会は無事でしたが、石川地区の輪島教会は会堂の一部と牧師館の隣が倒壊し、七尾教会も外壁に亀裂が走り、幼稚園が避難所として開放されています。
 
新年早々、大変なことになりました。テレビやネットのニュースをご覧になって、犠牲者や怪我人、安否不明な方々に思いを寄せて、不安になり、落ち着かない気持ちになっている方もいるでしょう。何とかしたいものの、緊急車両を優先するため、物資を直接持ち込むことや、ボランティアとして伺うことは、まだ控えなければなりません。
 
だんだんと被災者の状況が分かってくると、東日本大震災や、ウクライナ戦争が始まったとき、度々浮かんできた問いが、再び湧き起こってきます。神様はなぜ、この状況を許しているのか? なぜ、こんな目に遭う人たちを放っておくのか? 神様は今どこにいて、何をしているのか? これは、神の怒りによるものなのか?
 
残念なことに、被災した地域に向けて、「神を知る人が少ないから」「信仰が足らないから、このような目に遭ったのだ」と、悔い改めを迫る信者も、一定数存在します。「日本で大きな災害が起きるのは、私たちの信仰が足りないからだ」と、信徒に徹夜で祈るよう、命じてしまう指導者もいます。もちろん、そんな脅しはいけません。
 
先に言っておきますが、信仰の大小や優劣とは関係なく、災害による被害は起こります。無垢な正しい人として、悪を避けてきたヨブも、天災によって家や家族を失いましたが、それは罪を犯したからでも、信仰が欠けていたからでもありませんでした。神と共に歩んだとされる敬虔な王であっても、短い治世であったり、敵に殺されたりしました。
 
この災害は、神の怒りなんだろうか? 私たちへのメッセージなんだろうか? そのように問いかけることは自然ですが、神様の怒りや憎しみを勝手に代弁し、被災者を、自身を貶めることは、最もしてはいけないことです。自分が愛している人から「あなたは私に怒りを、憎しみを向けている」と言われることが、どんなに辛いか分かりますよね?
 
また、痛ましい現実に、ニュースに、胸が苦しくなって、神様に対する不信感、疑念、猜疑心が湧いてくる今、こんな思いを持っていたら、救われるものも救われないで、助けられるものも助けられなくなるんじゃないか?……と不安が増すかもしれません。実際、そういう声が、事件の度に、災害の度に、耳へ入ってきます。
 
だって、イザヤ書にも、本当の神を拒絶して、神の助けを信じないで、外国の力に頼ったから、審判が下ったと書かれている……神様が与えた掟を守らず、他の神々を拝んだから、敵の手によって打ち負かされたと言われている……やっぱり、罪や不信仰を追求して悔い改めを求めるべきじゃないですか……と?
 
一方で、イザヤ書40章から55章は、敵に敗北したイスラエルに対し、ひたすら責めたり叱ったり、人々を追い詰める言葉が、語られたわけではありません。むしろ、慰めと希望が語られ、捕虜となった人たちが、元の国へ帰れるように導かれる、という良い知らせ、救いに焦点が当てられていました。
 
「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう」……被災地で、傷ついた人たちを罪人として、さらに追い詰める言葉とは、大きく異なる呼びかけです。
 
また、ヨハネによる福音書にも、人々に悔い改めのバプテスマを授けた洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」として、イエス様が訪れたことを告げていました。印象的なのは、洗礼者ヨハネが、イエス様について「わたしはこの方を知らなかった」と、2度も繰り返し言うことです。
 
不思議ですよね? ルカによる福音書を見れば、洗礼者ヨハネは、イエス様の母マリアの親戚から生まれた、エリサベトの子どもです。父親は祭司ザカリアで、ヨハネがお腹の中にいた頃、マリアの訪問も受けています。聖霊によって身ごもった、親戚の男の子について、知らないはずが、聞かされていないはずがありません。

ヨハネ自身も、預言者として、自分をお遣わしになった方、神様から、救い主メシアが来られることを聞いていました。両親から、神様から、聞いていたことを踏まえれば、自分が洗礼を授ける相手が、イエス様であることは知っていたはずです。にもかかわらず、彼は洗礼を受けに来たイエス様を見て2度言います。
 
「わたしはこの方を知らなかった」……「知る」という言葉は、聖書の中でも特別な使われ方をします。相手との特別な関係があると、「その人を知っている」と言い、相手との関係が失われると、「その人を知らない」と表現します。そういえば、洗礼者ヨハネと同じく、イエス様について「知らない」と2回繰り返した人が、もう一人いました。
 
それは、イエス様が十字架につけられる前、敵に捕まったのを追いかけて、自分も捕まりそうになった、12弟子の一人、ペトロです。彼は、周りの者から、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」「確かに、お前もあの連中の仲間だ」と訴えられ、「そんな人は知らない」と2度にわたって打ち消しました(マタイ26:69〜75)。
 
イエス様を知っていたのに、信じていたのに、「関係ない」と否定しました。思わず、どうしようもなくなって、「何のことだか分からない」と言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのに、いざ、その時になると挫けてしまい、「知らない」と言ってしまいました。
 
しかし、イエス様はそのことを知った上で告げていました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)……自分を知っていたのに「知らない」と言う者のために、この方は祈り、励ましと力をもたらします。
 
実は、救い主を迎えるように、人々へ悔い改めのバプテスマを授けた洗礼者ヨハネも、自分が投獄されたとき、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ11:3)とイエス様に尋ねるほど、不安にさらされ、揺れ動いた人間でした。
 
神の声を聞き、イエス様を「神の子である」と証しした人でも、確信が持てなくなる、信じられなくなる弱さを持っていました。けれども、イエス様は、不安に揺れ動くヨハネのことを「預言者以上の者」「偉大な者」と語り、彼から水でバプテスマを受け、救いの訪れを知らせます。
 
苦難や困難を前にして、神様のことが分からなくなった、信じられなくなった、「もう知らない」と口にした、あなたや、あなたの大切な人も、洗礼者ヨハネやペトロのように、イエス様が再び出会いに来ます。「わたしはこの方を知らなかった」「そんな人知らない」と口にすることが、救いを台無しにするのではありません。
 
むしろそれは、新しく、救い主を知る、救い主に出会うための過程です。疑ったり、迷ったりすることは、不信仰に留まる道ではなく、聖霊を受けた人たちが通ってきた道のりです。神様は、あなたが自分を知らないまま、見えないままにしておきません。魂が飢えたまま、渇いたままにしておきません。
 
新しい年を迎え、一年の始めに、目の前の世界が崩れるような、終わっていくような現実を、目の当たりにした今この時も、神の言葉は生きています。「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう」……さあ、塞いでいた耳を澄まし、閉じていた目を開いて、良い知らせを受けましょう。救い主を迎えて、新しく出発していきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。