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あちらを立てればこちらが立たず【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録21:17〜24

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリスト教徒が守るべき掟とは何か、皆さんは聞かれたことがあるでしょうか? 私は中部学院大学のキリスト教概論で教えているときや、キリスト教ABC講座で質問が来たときなどに、何度か尋ねられています。たとえば、肉や魚を食べていいのか? 酒を飲んだらダメなのか? タバコを吸うのはNGか? 日曜日に礼拝を休んではならないのか?
 
宗教と言えば、食べてはならないものや飲んではならないものがある……いわゆる「食物規定」というものが、多くの人のイメージに刷り込まれています。実際、旧約聖書には蟹や海老などの甲殻類、鱗のついていない魚、血抜きをしてない肉や豚など、食べてはならないものが、細かく定められていました。
 
それらは、祭儀的に「汚れている」とされたもので、神の子イエス・キリストが、自ら十字架にかかって、全ての人の罪を贖い、清めてからは「守らなくてはならないもの」と言われなくなりました。むしろ、イエス様が新しい掟として語られた「互いに愛し合いなさい」という掟が、キリスト教徒にとって、最も重要な守るべき教えになりました。
 
けれども、そのイエス様が天に昇り、弟子たちに聖霊を送ったあとの教会でも、食物規定はいくらか残っていたようです。「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように」「みだらな行いを避けるように」この2つが異邦人も守るべき掟として言及されています。
 
ただ、新約聖書に記されたこの掟も、現在の一般的なキリスト教会で「守らなければならない」と教えているところは、ほとんどありません。だいたい、私たちの口にする肉が絞め殺した動物のものか、血が含まれているかどうか、気にしたり、調べたりすることもほぼありません。
 
むしろ、当時普通に飲まれていた酒や、聖書に出てこないタバコなど、そっちを気にしたり、禁じたりする信者の方が、多いかもしれません。「守るべき掟」と思っているものは聖書が、神様が、そう教えているから守っている……というよりも、私自身が「守るべき」と思っているから、守っている……と言う方が、潔いかもしれません。
 
しかし、こういった「これを守らなきゃダメ!」という圧力は、今日の教会でも至るところで見られます。「ジーパンで礼拝に出てはならない」「収入の十分の一を献げなければならない」「結婚相手は同じクリスチャンでなければならない」「同性愛は許してはならない」華陽教会ではそんなこと言いませんが、これらを耳にすることは珍しくありません。
 
そして、「これを守らなきゃダメ!」という主張に反発したり、批判したりすると、途端に大きな騒動になっていきます。「どちらが不信仰か」「どちらが非聖書的か」の争いになります。パウロを取り巻く環境もそうでした。迫害を受けて困窮していたエルサレム教会のために、諸外国で献金を集めて帰ってきたパウロは、すぐ長老会に呼び出されます。
 
「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセに背くように教えているとのことです。一体、どうしたらよいでしょうか」
 
キリスト教の世界宣教が始まって間もなく、小さい頃から律法を守るよう厳しく躾けられてきたユダヤ人と、そうでない異邦人との間で、度々問題が生じていました。生まれ育った環境も、文化も、生活習慣も違うのに、「異邦人にも、これまでのユダヤ人と同じようにさせなければならない」と考える人たちが一定数いました。
 
パウロはそれに抵抗し、割礼を受けなくても、細かな食物規定や祭儀規定に沿わなくても、イエス様の教えと業を宣べ伝える、主の教会の仲間として、異邦人も認められ、一緒にやっていけると訴えてきました。以前、エルサレムで開かれた使徒会議でも、その方針に同意してもらったはずでした。
 
けれども、しばらくぶりにエルサレムへ戻ってみると、「あなたはユダヤ人に対しても、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことだが、それは本当か?」と問いただされてしまいます。実際には、ユダヤ人に正面からそう言ったとは思えませんが、そのように吹き込む誰かがいたようです。
 
正直なところ、パウロは異邦人だけでなく、全ユダヤ人に対しても「割礼を無理に受けさせる必要はない」「食物規定や祭儀規定に今も縛られる必要はない」と訴えたかったんじゃないかと思います。実際、彼が残した色んな手紙には、異邦人に限った話として、これらが記されているわけではありません。
 
きっと、言葉の節々から、本当に守るべき掟とは、割礼や慣習じゃないはずだ、互いに愛し合う上でもっと考えなきゃならないことがあるはずだ……という訴えを滲み出させていたんじゃないかと思います。もしここで「異邦人はともかく、ユダヤ人は割礼を施さなければならない」「慣習に従わなくてはいけない」と言い出したら、台無しです。
 
今まで、自分が一生懸命イエス様の教えと業を語ってきた信徒の信頼も失いかねません。かといって、このまま「あいつは律法を蔑ろにさせている」と言い広められたら、余計に宣教が難しくなります。あちらを立てればこちらが立たず……というやつですね。キリスト教会の中で、二世問題や性差別の話が、正面からしにくいのと似ています。
 
結局、パウロとユダヤ人の間で、争いが起きるのを防ぎたかった長老たちは、彼にこう提案します。「わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります」
 
パウロ自身が、律法をきちんと守っている姿を見せ、仲間にもそうさせている姿を見せて、律法を蔑ろにしていないことをアピールしよう……というわけです。でも実は、この提案って、旧約聖書に定められた律法どおりではないんです。たとえば、「頭を剃って誓願を立てる」……と言えば、民数記6章に出てくる「ナジル人の誓願」が思い浮かびます。
 
ところが、この規定では、誓願を立てる者が頭を剃るのは、誓願を立てるときではなく誓願の期間が終わるときです。あるいは、誓願の期間に思いがけず、自分のそばで誰かが死んで、伸ばしていた髪を汚したときです。民数記19章にも、死体に触れてしまった者は、触れてから3日目と7日目に身を清めなければならないという規定がありました。
 
もしかしたら、誓願を立てた4人には、近くで亡くなった人がいたのかもしれません。4人いっぺんに、ということと、エルサレムの状況を考えると、迫害による仲間の死が、身近にあった後だったのかもしれません。それなら、誓願の内容も、伝道の使命を果たすまで、命が守られるように……ということが考えられます。
 
しかし、その場合、7日間は汚れたままなので、7日間の期間を終えるまでは、神殿の境内に入ってはいけません。けれども、パウロと誓願を立てた4人は、清めの式を受けて翌日に神殿へ入り、7日の期間が終わろうとしていたときにも、もう一度、神殿の境内へ入っています。これは、厳密には清めの期間が終わってないので、聖所を汚す行為です。
 
つまり、「割礼を守らなければならない」「モーセの慣習を守らせなければならない」と主張していたユダヤ人たちも、律法を厳密に守っていたわけではなく、いつの間にか違う慣習になっていたり、簡略化されていたり、もとの意味から変わった行為として守られていたんです。
 
改めて、私たちが「守らなければならない」と思い、人に強いているものが何なのか、問われてきますよね? 「自分たちの伝統」「大事にしてきたもの」と言いながら、実際には、伝統の中身をちゃんと確認せず、何を大事にすべきか見つめ直さず、ただ、「これを守っていれば正しいんだ」と思いたいだけの姿勢に陥ってないか……耳が痛い話です。
 
教会が大事にしてきたもの、信仰者が紡いできた伝統は、そのままの形で、疑問を差し挟まず守らなければ、失われるものじゃないはずです。むしろ、教えを大事にするということは、現実に照らして、教えをどう捉え、どう実践するかを問い続けることでもあるんです。私たちの中に、その問いとエネルギーが絶えることなく、続いていきますように。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。