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ここにとどめておいてほしい【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録25:13〜27

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリスト教が世界宗教となったのは、宣教者パウロをはじめとするイエス様の弟子たちが、ユダヤ人だけでなく、世界中の異邦人にも、神様の言葉と業を伝え、信じて救われるように教えていったからでした。当初は、キリスト教も、ユダヤ教における「ナザレ人の分派」と呼ばれていましたが、いつしか独自の宗教として捉えられるようになりました。
 
けれども、一部のユダヤ人にとって、神の民として選ばれた、自分たちの国イスラエルを滅ぼした大国や、今も支配してくる国々が、自分たちと同じく、救いの対象になっている、というのは、受け入れ難いことでした。長年、神様を信じて礼拝し、掟を守ってきた自分たちと、そうでない人たちが、一緒に救われる世界は嫌だったのかもしれません。
 
少なくとも、神様を信じていなかった、異教の神を礼拝してきた人々は、相応の罰を受け、神様の教えを学び直し、掟を厳格に守るようにならなければ、救われる対象にならない……という考えが、けっこう、根強くありました。もともと熱心なユダヤ教徒であったパウロも、かつてはそうでしたが、復活したキリストの幻と出会って変わりました。
 
神様は、「何をできたか」「どこまでやれたか」で、私を救うかどうか、決めてしまう方ではない。むしろ、なかなか教えを守れない、理解できない、実行できない私のことも見捨てずに、救いに至るまで、どこまでも付き合い続けてくださる。そのことを信じて告白する人たちが、神の民として受け入れられないことはない。
 
そのように、パウロは確信を抱いて宣教し、ユダヤ人でも、異邦人でも、「イエス様を信じて救われなさい」と教えてきました。一方で、パウロが「掟なんて守らなくていい」「律法なんてどうでもいい」と教えているように受け取った人々は「彼は秩序と伝統を破壊している」として、激しく攻撃するようになりました。
 
けれども、実際に、パウロが「掟なんてどうでもいい」と教えていたわけではありません。むしろ、神様の教えをどのように守るか、どのように大事にするか、自分たちユダヤ人のやり方だけを押し付けてはならない……と教えていました。しかし、パウロに反対する人々は、とにかくパウロが自分たちの掟を蔑ろにした、と責める方向で訴えました。
 
そのため、噛み合わない議論が続きます。「パウロは律法を蔑ろにし、他の者にも掟を守らないように教えている」と言う者がいたり、「パウロはユダヤ人以外が入れない神殿へ、異邦人を連れ込んで、その場を汚した」と言う者がいたり、「パウロはあちこちで、群衆を扇動し、騒動を起こしている」と言う者が出てきました。
 
しかし、パウロが実際には何と言ったか、どのように教えたか説明すると、訴えが正しいとは思われず、律法を蔑ろにした事実は認められませんでした。また、神殿に異邦人を連れ込んだという事実もなく、神殿を汚した事実は認められませんでした。さらに、あちこちで騒動が起きているのは、むしろパウロに反対する人たちが煽動したためで、パウロが暴動を起こそうとした事実も認められません。
 
結局、パウロを訴えようとする人たちは、パウロが罪を犯した証拠を何一つ挙げることができませんでした。そこで彼らは、唯一、証拠を出せる宗教的な問題について訴えます。それは、「この男は死者が生き返ったと教えている」「十字架にかかって死んだイエスが、生きていると主張している」という内容です。
 
これだけは、実際にパウロが言ったことで、彼自身も認め、他の人からの証言も、一致していることでした。しかし、ローマの法律では、「死者が生き返ったと信じている」「それを誰かに伝えている」というだけで、死刑に処せられることはありませんでした。何なら、死者の復活については、熱心なユダヤ教徒の中にも信じている人たちがいました。
 
もし、パウロが信じていることを、その信仰を明かしたことを、犯罪として訴えるならやがて来たる神の国で、死者が復活すると信じていた他のユダヤ人たちも、同じ理由で、訴えられねばなりません。そして、死者の復活を信じるユダヤ人の中には、パウロに反対していたファリサイ派の多くも含まれました。
 
つまり、パウロを訴えられる理由が他に見つからないため、自分たちも、追求されたら困る内容でしか、パウロを訴えられなかったんです。実際、カイサリアの総督になったフェストゥスは、はっきり、パウロの無実を口にしています。「彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました」
 
彼だけでなく、最初にパウロを捕えた千人隊長クラウディウス・リシアも、取り調べの後、こう言っていました。「彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないということが分かりました」……ここまで来たら、もはやパウロが言うことは一つだけです。
 
「私が無実だと分かったなら、もう解放してください」「ここから出して、自由に宣教させてください」……ところが、パウロは自分の解放を求めずに「私は皇帝に上訴します」と言い出します。さらに、フェストゥスには、「皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしい」と願い出たようです。
 
先週も、この件について話しましたが、普通はローマ帝国の役人たちに捕えられ、閉じ込められている状況は、歓迎できるものではありません。度々、取り調べを受けるのも、法廷に連れ出されていくのも、勘弁してくれと思うのが自然です。こんなことではなく、伝道がしたいんだ……宣教者なら、誰でも思うことでしょう。
 
しかし、パウロはこの場所が、取り調べをするローマ人が、自分の遣わされた宣教先だと堅く信じ、彼らの間に留まります。この法廷が、この監獄が、私に与えられた教会だと留まることを決心します。彼は法廷で弁明することで、ローマの人々に信仰を証しし、イエス様の教えと業を伝えていきます。
 
けれども、いくらパウロが宣教のために、そこへ留まろうとしても、本来そこに留まることはできないはずのことでした。なぜなら、告発された罪状が立証されず、「死罪に相当するようなことは何もしていない」ということが判明した人間を、さらに、裁判へかけたり、投獄しておいたりすることは、基本的にできないからです。
 
確かに、皇帝に上訴すれば、裁判を受ける権利はありますが、既に無実が認められているのに、皇帝へ上訴するのは無駄でしかありません。「そんな必要ないよね」「君の無実は認められたから、さっさとここから出ていきなさい」そのように言われるのが普通です。だって、無実の人間を皇帝のいる法廷に寄越されても、迷惑でしかありません。
 
実際、フェストゥスは「この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません」「囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わない」と自ら白状しています。それなら最初から、上訴を受け入れる必要はないんです。ユダヤ人たちの告発は却下され、パウロの上訴も棄却されて終わりです。
 
にもかかわらず、なぜか、フェストゥスはパウロの要望を通すために、皇帝へ上訴するための罪状を書こうと努力します。町の主だった人々や、アグリッパ王まで協力して、パウロを皇帝に引き渡すための文書が作成されていきます。あり得ませんよね?……こんな面倒くさいこと、こんな利益にならないこと、どうして彼らはやったんでしょう?
 
宗教の問題……それも、異端とされる分派の問題……けれど、犯罪には当たらない論争についての問題……こんなのに、司法が積極的に関わることはなかなかありません。というか、関わりたくないでしょう。もう自分たちで勝手にしてくれ……こっちは介入しないから、そっちで解決してくれ……と放り出すのが普通でしょう。
 
下手すれば、「棄却すべき案件をどうして皇帝に押し付けるのか?」と厳しく責められかねない行為です。それなのに、パウロを取り巻くローマ人は、「皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしい」というパウロの願いを聞くために、主だった人たちを招集し、開廷し、話を聞こうと動きます。
 
パウロが囚われ、閉じ込められていた場所が、神様に遣わされた場所として、見えない教会として、新しく変えられていったのは、パウロだけに、その導きが働いたからではありません。彼ら、ローマ人の間にも、不思議な導きが働いて、パウロの話を聞く時間、信仰の証を聞く場所が、備えられていったんです。
 
新しい教会はどこにあるのか? 自分が遣わされる場所はどこにあるのか? 私たちの間におられる救い主、イエス・キリストの呼びかけに、耳を澄ませながら、改めて見つめ直していきましょう。「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」(テサロニケの信徒への手紙二3:16a)アーメン。

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