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40人以上の刺客【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録23:12〜22

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

ユダヤ人以外が入ってはならない神殿の中へ、異邦人を連れ込んだと勘違いされ、ユダヤ人たちに引きずり出された宣教者パウロは、その後も「生かしてはおけない」と罵倒を受けたり、最高法院で取り調べを受けたり、ユダヤ人たちに引き裂かれそうになったりして、次々と命の危機に直面します。
 
そんな中、「ローマでも証しをしなければならない」と神様から命じられ、元気を出すよう励まされたパウロは、翌朝、さらに大きなピンチに襲われます。それは、ユダヤ人たちの陰謀によるパウロの暗殺計画でした。なんと、この企みに加わった者は40人以上もいたと言われ、祭司長や長老たちも、裏でつながっている事件でした。
 
恐ろしいことに、彼らは「パウロを殺すまでは飲み食いしない」という誓いを立てて、今にも計画を実行せんとしていました。ここで言う「誓いを立てる」とは「自分を呪いの下におく」「呪いをもって誓う」というニュアンスであり、「この誓いが果たされなければ私自身が呪われよ」という意味にもなりました。
 
祭司長や長老たちと手を組む人が、自分自身に「呪い」をかけるって、ちょっと異様に思えるかもしれません。ですが、旧約聖書にも度々、神様に仕える指導者たちが、「○○しなければ、神が幾重にもわたしを罰してくださるように」と自分自身に呪いをかけるシーンが出てきました。
 
つまり、この意志と行為が間違っているなら、神様に呪われたってかまわない、という意思表示であり、「神様もこの選択を望んでいるに違いない」という気持ちの現れでもありました。だからこそ、余計に恐ろしいわけです。40人以上のユダヤ人が、パウロを暗殺することは、神の意志に適っている、正しいことだと考えて、絶対実行する気でいる……。
 
彼らは、パウロを詳しく尋問するという口実で、再び、最高法院へ出廷させるよう千人隊長に願い出て、その道中で暗殺する手筈を整えました。いくらローマの兵隊に囲まれているとはいえ、手段を問わず、本気で殺そうとする人が40人以上もいたら、さすがに、パウロも命が足りません。
 
絶対絶命の展開です。ところが、この陰謀が計画されているところに、なぜかパウロの姉妹の子、甥に当たる若者が紛れており、こっそり抜け出して、パウロに何が起きているかを知らせに来ました。あまりに唐突でちょっと困惑してしまいます。普通、誰かの暗殺が計画されているところに、その人物の身内が紛れ込めるとは思えません。
 
ユダヤ人たちは、その子がパウロの甥であることを知らなかったんでしょうか? 誰かから計画が漏れることを心配しなかったんでしょうか? 暗殺計画がバレたら、パウロに逃げられるだけでなく、彼ら自身もローマの千人隊長を出し抜こうとした罪で、捕えられるかもしれません。その割に、どうも危機感が足りないようです。
 
また、ローマの兵営も、パウロがユダヤ人たちに引き裂かれないよう、彼を取り囲んでいたはずなのに、若者はあっさり兵営の中に入れられて、パウロに接近するのを許されます。ちょっと、セキュリティーが怪しくないでしょうか? エルサレム中を混乱に陥れた騒動の渦中にいるんですから、面会はもっと厳しくなるのが自然です。
 
しかし、この様子なら、パウロを狙うユダヤ人たちも、最高法院まで待たずとも、簡単に忍び込めてしまいそうです。ローマの兵営たちは、パウロの甥だという理由で、この若者を簡単に通してしまったんでしょうか? 誰も危険だと思わなかったんでしょうか? ユダヤ人たちも、ローマの兵営も、守りがガバガバに見えてきます。
 
逆に言うと、両者ガバガバな状態が、この不自然な展開が、パウロに「勇気を出せ」と言われた、神様の助けではないかと思わせます。パウロ自身も、自分の甥が聞けないはずの暗殺計画を聞き、入れないはずの兵営へ入って、危険を知らせてくれたのを見て、ようやく、ユダヤ人ではなくローマの千人隊長に向けて話をします。
 
「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです」……ここまで、パウロは千人隊長から何か聞かれても、まともに何があったかは答えないで、「ユダヤ人たちに話させてほしい」という態度をずっと続けてきました。取り調べも、ユダヤ人の最高法院でなければ、まともに受けようとしませんでした。
 
しかし今、「勇気を出せ」と励まされ、「ローマでも証しをしなければならない」と命じられ、自分の危機を助けるために、来るはずのない甥が遣わされたのを見て、彼のローマ人への証が始まります。自分たちを支配し、苦しめてきた異邦人の最たるところへ、神様の救いを、良い知らせを伝えに行きます。
 
もしかしたら、パウロは、諸外国からエルサレムへ帰ってきて、ここではユダヤ人のために語ることが命じられているんだ……と思い込んでいたのかもしれません。ここはもう諸外国じゃない。異邦人の街でもない。自分が語るべき相手は、同胞のユダヤ人だと、心のどこかで思っていたのかもしれません。
 
しかし、彼がユダヤ人に向けて語ろうとするとき、ユダヤ人たちはその話を拒絶し、むしろ、異邦人の方が、ローマの兵隊たちが、何があったのか知りたいと、彼の話を聞こうとしました。パウロはそれを見ても、まともにローマの兵隊へ、千人隊長へ話そうとせず、ユダヤ人へ話をさせてくれという態度を崩しませんでしたが、ついにそれが変わります。
 
私たちも、自分が遣わされた先で、誰に向けて、何をするべきか、見失っているときがあるかもしれません。神様が何を求めているか、分からずにいるときがあるかもしれません。しかし、そんな中でも神様は、私たちを励まし、苦難から助け出し、歩むべき道を示し続けてくださいます。
 
今日も、そのことを思い出しながら、キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節(レント)の始まりを記念したいと思います。イエス様の復活を祝うイースターまで、私たち一人一人が、自らの過ちと向き合って、神様の励ましに耳を澄ませて、準備を整えていくことができますように。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。