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奇跡が盛り上がらない【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録20:1〜12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

キリスト教を伝えようとしてエフェソで暴動を起こされ、シリア州へ行こうとしてユダヤ人に命を狙われ、急遽、マケドニア州を経由してエルサレムへ帰ろうとしたパウロたちは、フィリピから船出して、トロアスに7日間滞在し、新たな事件を起こします。幸い、迫害や暴動などの事件ではなく「死者を生き返らせる事件」という奇跡の出来事です。
 
ところが、この出来事は、あまりにも静かに、淡々と進行し、もっと騒ぎになってもおかしくないのに、全然盛り上がらないまま、パウロたちは去ってしまいます。普通、死んでしまった若者が生き返ったら、一大ニュースとして一気に広まり、次々と人が集まってきます。メディアが押し寄せ、野次馬が並び、お祭り騒ぎのようになるでしょう。
 
パウロという宣教者が、転落死した若者を生き返らせた! 信じられない奇跡を起こした! 私たちもあそこへ行けば、大切な人を生き返らせてもらえるかもしれない! 自分が亡くなっても、甦らせてもらえるかもしれない! そうやって、どんどん人が集まってくれば、信者も一気に増やせたでしょう。
 
けれども、パウロをはじめ、同行していた者たちは、この奇跡を一切人集めに使いません。ソパトロも、アリスタルコも、セクンドも、ガイオも、テモテも、ティキコも、トロフィモも、パウロの話を信じたら、このように生き返らせてもらえると、人々に告げて回りません。
 
7人もパウロと同行していたのに、誰一人、奇跡を使って洗礼を勧めないんです。なんなら、この奇跡自体、もっとドラマティックな演出があっても良さそうなのに、びっくりするほど地味に、静かに、つつましく展開していきます。意地悪な言い方をすれば、奇跡のわりに、「つまらない」んです。
 
その日は日曜日、週の初めの日ですから、私たちと同様、みんなが礼拝のために集まっているときでした。パウロは、翌日出発する予定で、みんなと別れる前に、最後の説教、メッセージを語っていました。最後ですから、多少は長くなるかもしれませんが、なんとこの日は夜中まで、延々とメッセージが続きます。
 
たとえ、夕方の5時から礼拝が始まったとしても、4時間、5時間と話が続けば、誰だって眠くなるでしょう。部屋の中も混んでいたことが予想されます。パウロの話を聞けるのも最後だからと、集まってきた人々に席を譲り、自分は窓に腰かけていた青年が、不慮の事故に遭ってしまいます。
 
彼の名前はエウティコ、「運がいい」という意味の名前でしたが、本人は運悪く、長々と続くパウロの話に眠気を催し、窓から落ちて3階下の地面に激突してしまいます。窓に腰掛けた状態で落ちていますから、おそらく頭からいったでしょう。息をしてないとか、目を開かないとか、そんなレベルではありません。
 
首が折れたか、頭蓋が割れたか、見るからに死んだことが分かる状態でした。「起こしてみると、もう死んでいた」という言葉から、抱き起こした際、グラリと揺れる頭の様子を生々しく想像させられます。けれども、降りてきたパウロは彼の上にかがみ込み、自分も抱き抱えてこう言います。
 
「騒ぐな。まだ生きている」……いやいや、どう見ても死んでいるでしょう? たった今、みんなで確認したでしょう? 「まだ希望はある」というふうに言われても、正直、気持ちが追いつきません。これが、シリア州から追いかけてきた、ユダヤ人による陰謀だったら、まだ格好がついたかもしれません。
 
青年が、キリスト教徒を標的にした凶弾に倒れ、駆け寄ったパウロに抱き抱えられて、「騒ぐな。まだ生きている!」と言われるなら、信仰によって甦らされる奇跡を、素直に期待できるでしょう。でも、この青年が死んだのは、メッセージの途中で居眠りしたからです。パウロのつまらないメッセージが長々と続いてしまったからです。
 
奇跡物語として語りつぐには、あまり格好がつきません。しかも、パウロは亡くなった青年を抱えてまた上に行き、何事もなかったかのように、パンを裂いて食べ、再び話を再開し、夜明けまで語り続けます。正気とは思えない行動です。ついさっき、亡くなった青年を抱き起こした手でパンを裂き、口に入れて、話を続ける。
 
青年は夜明けまで放置され、語り終わったパウロはそのまま出発し、立ち去ってしまいます。ところが、最後の文章で、いつの間にか青年が生き返っていたことが明かされ、人々は大いに慰められた……という言葉が続きます。いやいや、いつ生き返ったんですか?  パウロは何をして青年を甦らせたんですか?
 
死者の復活という大きな出来事にもかかわらず、誰も、その奇跡がいつ起きたのか、どうやって行われたのか分かりません。パウロが青年のために祈るシーンさえ描かれません。彼が宣言したのはただ一言「騒ぐな。まだ生きている」……それ以上、復活の奇跡に関する詳細は伏せられています。
 
「こう祈ったから復活した」「これをささげたから甦った」……そんな話を一切挟まず、なぜ、どうして、どうやって、生き返ったかは分からないけど、確かに青年は甦り、人々のもとへ帰ってきたことが記されます。パウロに対する称賛ではなく、大いなる慰めが残されます。
 
思い返せば、聖書に記された復活の奇跡は、いずれもそんなに盛り上がらず、静かに、淡々と起こされました。イエス様が、やもめの息子を生き返らせたときも、マルタとマリアの兄弟ラザロを甦らせたときも、派手な演出は一切なく、客寄せのようなアピールもなく、ただ、悲しむ人々に慰めと喜びをもたらすために、神様の業が行われました。
 
教会で、私たちが奇跡を求めるのは、何か目立ったことを起こして、人を集めるためではなく、傷ついた人たちが癒されるため、絶望の底にいる人たちが慰められるためです。癒された人、回復した人をみんなに晒して、信者を増やすためではなく、帰れなかったところへ、帰れるようにするためです。
 
ときに、私たちは伝道のため、誰かの身に起きた奇跡を集め、不特定多数の人に晒して利用しようとしてしまいますが、本来、そんなことしなくても、イエス様の教えと業は伝えていけるんです。しるしを求める人たちへ、イエス様は分かりやすい奇跡ではなく、神の国の教えを語りました。
 
弟子たちも、人集めのためではなく、癒しと回復のために奇跡を行い、自分たちが称賛され力を持つ前に、そこを去っていきました。改めて、私たちも、自らの姿勢を振り返りつつ、神様がもたらす慰めと希望を胸に、良い知らせを、福音を、伝えていきたいと思います。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。