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そんなことをしたのは・・・【日曜礼拝】

《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》ルカによる福音書20:9〜19

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》そんなことをしたのは・・・

キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こす受難節第5週目を迎えました。いよいよ来週には、イエス様が十字架につけられるまでの一週間を思い起こす「受難週」に入ります。本日開いた聖書箇所も、神の子イエス・キリストが死んでしまう、殺されてしまうたとえ話が、本人の口から語られていました。
 
たとえ話の舞台はぶどう園です。イエス様の語るたとえ話に、ぶどう園が出てくると、聞いている人は、だいたい躓いてしまう……というパターンがありますが、今回もまた、例に漏れず、ショッキングな話が語られます。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た……」
 
聖書の中で「農園の主人」が出てきたら、基本的には「天の国の主人」である神様のことを指しています。その主人が遣わす「僕」たちは、神の言葉を預かって、人々に伝える役目を果たしてきた、歴代の「預言者」を指すでしょう。主人は、農夫たちに収穫を納めさせるため、旅先から、何度も僕を送り出します。
 
ところが、農夫たちは、遣わされた僕を袋叩きにし、何も持たせないで追い返してしまいました。それは、神様に遣わされた預言者が、人々へ何を言っても聞いてもらえず、悔い改めてもらえなかった歴史を思い出させます。さらに主人は、二度目、三度目と、別の僕を送り出しますが、農夫たちは毎回、何も持たせないで追い返してしまいます。
 
それも、袋叩きにするだけでは飽き足らず、侮辱を加え、傷を負わせて、何度も暴力を振るいます。神に背いて不義や不正を繰り返し、過ちを犯す人々へ、悔い改めて、神に立ち返るよう訴えてきた預言者が、かえって人々に命を狙われ、追い返され、傷ついてきた記憶が呼び起こされます。
 
通常、この後予想されるのは、何度、僕を送っても言うことを聞かず、主人の言葉を蔑ろにしてきた農夫たちに、裁きが下されることです。ぶどう園の主人が兵を雇って、農夫たちを捕らえ、裁判所に引き摺り出し、彼らの財産を没収して、残りの賠償金が払えるまで、奴隷として働かせることです。
 
ところが、たとえ話の主人は、予想外の言葉を口にします。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」……正直言って、ありえない選択です。3人の僕を送って、3人とも追い返され、侮辱され、傷つけられてきたんですから、どう考えても嘗められています。今更、敬う気持ちなんて期待できません。
 
せめて、護衛をつけなければ、安心して息子を送り出すことはできないでしょう。何度も自分の僕に暴力を振るってきた相手ですから、武器も従者もつけずに行かせるなんて、恐ろしいに決まっています。不安がないわけありません。にもかかわらず、主人の息子は無防備な状態で農夫たちのもとへやって来ます。
 
もし、主人が農夫たちを裁くために、罰するために、息子を送り出したなら、その手には槍や剣が握られていたでしょう。護衛や兵士が、一緒に遣わされていたでしょう。しかし、主人は本気で、彼らが息子を敬って、話に応じることを期待して、武器も兵士もつけないまま、愛する息子を送り出します。
 
不思議ですよね? 本来なら、話に応じてもらうために、努力する必要はないんです。対等に話そうとする必要なんてないんです。行って、クビにして、捕まえたらいいんです。普通はこの後、牢に入れるか、奴隷にするか、処刑するかの3択ですから、信頼してもらうために、無防備な姿を見せる必要なんてないんです。
 
逆に言えば、主人が考えたのは、その3択じゃなかったんです。つまり、この主人は、自分の言うことを聞かなかった、自分の僕を痛めつけてきた彼らのことを、まだ農夫として雇うつもりでいたんです。クビにするんじゃなくて、和解するつもりでいたんです。彼らとの関係を終わらせるためではなく、新しく続けていくために息子を送り出したんです。
 
その息子とは、まさに、神の子であるイエス様を指しています。けれども、たとえ話の農夫たちは、主人の息子がやって来ると、こんなことを言い始めます。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」……もちろん、雇われの身である農夫たちが、主人の財産を相続することはできません。ぶどう園を、神の国を、自分のものにすることはできません。
 
しかし、律法学者や祭司長たちは、自分たちこそ、神の国を受け継げる、相続できる、救いに選ばれる指導者のように振る舞っていました。この世へ遣わされた救い主イエス・キリストを殺害し、消してしまえば、今までのように、みんなの間で、権威を維持できると思っていました。
 
面白いことに、イエス様はたとえの最後をこんな言葉で締めくくります。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」……ちがいないけど、どうなったのかは明らかにしない。結末をはっきり語らない。すごくモヤモヤさせる終わり方です。
 
ここで、律法学者や祭司長たちは、イエス様が自分たちに当てつけて、このたとえを話されたことに気がつきます。たぶん、他の民衆も気がついたでしょう。イエス様が、たとえ話に続いて、建築に使われる石の話を持ち出すときは、たいてい神殿に固執する者への批判が含まれていたからです。
 
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」……当時の宗教指導者が、自分たちの権威を維持するために、捨て去ろうとしたイエス様こそ、新しい神の家、神の国の神殿を築く、重要な存在であることが、詩編の言葉を引用しながら語られます。つまり、主人の息子を殺そうとした農夫たちは、キリストを殺そうとする自分たちのことを指している、と分かってしまったんです。
 
ただ、律法学者や祭司長たちの前に「農夫たちとは、自分たちのことではないか?」と思い、彼らが殺されるに違いないと聞いて、ぶどう園を他の人たちに与えるだろうと聞いて、「そんなことあってはなりません!」と叫んだ人たちがいました。それは、イエス様の話を聞いていた弟子たちや民衆です。
 
考えてみれば、天の国の主人である神様の遣わした預言者を、何度も拒絶し、言うことを聞かず、追い返してしまったのは、イスラエルの民全体の姿です。3人どころか15人以上、預言者の言うことに耳を傾けず、追い返してきた歴史を持っている自分たちは、どうなってしまうのか? 天の国の主人に殺されてしまうのか?
 
もし、そうなったら、ぶどう園を、天の国を、神様から与えられる「ほかの人たち」とは、いったい誰のことなのか? まさか、自分たちユダヤ人を支配するローマ帝国や他の国の異邦人のことか? 今まで敵だった人たちが、自分たちの代わりに神の国を受け継ぐのか? そんなことあってはなりません! 思わず叫んでしまう人々の姿が見えてきます。
 
あるいは、「そんなことあってはなりません!」と叫んだ人たちは、農夫たちが殺されることに対してではなく、主人の息子が、神の子であるイエス様が、殺されてしまうことを否定したかったのかもしれません。しかし、「そんなこと」をこの後起こすのは、他ならぬ弟子たちと民衆です。
 
彼らの中の一人が裏切り、他の全員がイエス様を見捨てて、民衆は皆、祭司長や律法学者に扇動されるまま「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」と叫んで、イエス様を死に引き渡してしまいます。実は、このたとえ話の前半は、それから間もなく、本当に起きてしまったことでした。
 
必然的に、問いかけなくてはなりません。たとえ話で明らかにされなかった、はっきり語られなかった農夫たちの結末は、どうなったのか? 預言者を追い返してきたイスラエルの民は、祭司長や律法学者に扇動されてイエス様を殺してしまった人々は、どうなったのか? 「殺されるに違いない」と言われたとおり、殺される結末が待っていたのか?
 
私たちは知っています。普通なら、殺されるに違いないけど、誰も殺されなかったことを……主人の息子を、神の独り子を、その手にかけた人々へ、なお、復活した神の息子が遣わされたことを……「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」……そんな期待を、信頼を、私たちに持ち続けている方がいることを。
 
あってはならないことをした者に、ありえない未来をもたらす方が、私たちのもとへやって来ます。イエス様が死者の中から復活し、自分を追い出した者たちと再会し、「あなたがたに平和があるように」と告げられたイースターまで、あと2週間……今も、あなたを信頼し、あなたと新しく出会われる、イエス様を迎える準備をしていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。