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なかなか解放されません【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録24:24〜25:12

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

ユダヤ人から訴えられた宣教者パウロは、最高法院へ何度も出廷しながらも、なかなか解放されません。ユダヤ人の掟である律法を犯したという訴えも、ユダヤ人が大切にする神殿を汚したという訴えも、ローマ帝国の法を犯して皇帝に背いたという訴えも、何一つ証拠が挙げられなかったにもかかわらず、不起訴になりませんでした。
 
その理由は単純で、パウロの裁判を担当したカイサリアの総督フェリクスと、フェリクスの後任フェストゥスが、2人ともユダヤ人に気に入られようとしたためです。ユダヤ人を支配しているローマ帝国の役人が、ローマの市民権を持つパウロの方ではなく、ユダヤ人の方に「気に入られようとした」というのは、何だか不思議な話です。
 
確かに、自分たちの占領する土地で、異なる民族に暴れられたり、謀反を起こされたりしないよう、ある程度、住民から好意を得る必要はあったでしょう。しかし、同じユダヤ人でも、ローマ帝国の市民権を持っている人間と、そうでない人間なら、支配者から見て優先すべき相手は、明らかに前者となるはずです。
 
なぜなら、多額の金でローマの市民権を手に入れても、市民権を持っていない大衆の方が優先されるなら、ローマ帝国に進んで仕えようとする市民たちに、不満が溜まってしまいます。また、ローマ帝国で出世や名声を得たいなら、ユダヤ人に忖度するより、帝国の市民に忖度する方が、自然だったとも思います。
 
一方、フェリクスについては、「パウロから金をもらおうとする下心もあった」と24章26節に記されていますが、収賄は皇帝の勅令で禁じられた行為でもありました。パウロから金をもらって、起訴を取り下げたとしても、不満に思ったユダヤ人から、勅令に違反したのではないかと告発される、大きなリスクがありました。
 
よく考えると、フェリクスとフェストゥスが、ユダヤ人のために、パウロの起訴を取り下げようとしないことは、権力者として普通のことではありません。これはかえって、皇帝や皇帝の臣下から、目をつけられかねない話です。そしてこれが、新約聖書ではなく、旧約聖書の話なら、2人の態度は、むしろ「信仰的」にも見えたでしょう。
 
本来、ユダヤ人を支配しているはずの権力者が、ユダヤ人の願いを聞いて、彼らのために気を遣って行動する……それは、エステル記に出てくるペルシャの王や、ダニエル記に出てくるバビロニアの王を思わせます。実際、フェリクスも、ペルシャの王がユダヤ人の王妃を娶ったように、ユダヤ人のドルシラを妻に迎えた人物でした。
 
よく見ると、パウロを訴えた大祭司や長老たちがフェリクスを褒め称える言葉も、ユダヤ人を助けたペルシャの王や、バビロニアの王に向けられた言葉と重なっています。どうやらカイサリアの総督を務めたこの2人は、単純に、宣教を妨害する、神に背いた人物として描かれているわけではなさそうです。
 
むしろ、パウロが皇帝に上訴しなければ、おそらく、釈放されただろうと26章27章にも言及されています。パウロ自身も、あと少し粘れば、このまま解放される見通しが、立っていたんじゃないかと思います。なにせ、裁判の内容は明らかに、パウロに有利な展開で、ユダヤ人たちの訴えは、ことごとく立証できていませんでした。
 
フェストゥスもパウロの無罪を認めています。それなのにパウロは「このまま解放してください」と訴えるのではなく、より裁判に時間のかかる、拘束される時間が長くなる、上訴という道を選びます。たぶん、皇帝に上訴さえしなければ、証拠不十分で不起訴が決まったはずの法廷で、わざわざ「皇帝のもとへ出頭します」と申し出るんです。
 
これじゃあ解放されるまで、さらに時間がかかってしまいます。2年も監禁されていたのに、自由に宣教できなかったのに、パウロは外へ出ることよりも、囚われたまま、総督や領主、皇帝に証言することを求めます。まるで、それこそが自分に与えられた本来の使命、「宣教」であるとでも言うように……いえ、実際そうなんです。
 
彼は、カイサリアで監禁されている間、2年にわたって、フェリクスと、その妻であるユダヤ人のドルシラにキリスト・イエスへの信仰について語っていました。裁判に勝つための自己弁護のためではなく、自分の心象が悪くなりかねない、正義や、節制や、裁きについても語っていました。
 
フェリクスの後任フェストゥスにも、死んでしまったと言われるイエス様が、今も生きていると語りました。「この男は頭がおかしい」「証言の信憑性が怪しまれる」と判断されかねないのに、気にする様子もなく、イエス様の教えと業を語りました。続けてユダヤの領主にも、ローマの皇帝にも、キリスト・イエスについて証言しようとしていきます。
 
この法廷が、この監獄が、私の遣わされた教会だ……ここに囚われていることが、ここで証言することが、私の宣教であり、神様から与えられた使命である……そのように、パウロは理解していたのかもしれません。確かに、ローマ人への証しは、彼が法廷で証言することによって、監獄で呼び出されることによって、進められていきました。
 
獄中で記した手紙によって、同労者へのことづてによって、教会の教えも、共同体の在り方も、信仰者への教育も、整えられていきました。自由を奪われ、なかなか解放されないように見えたパウロは、むしろ、最も広く、深く、宣教の使命を進めていた、キリストの証人になっていました。
 
それは、皆さんも同じです。教会の宣教は、教会へ行けないときにも、集まれないときにも展開されます。あなたが家から出られないとき、病院から、施設から、部屋から自由に出られないとき、宣教の業に加われなくなったと、どうか思わないでください。あなたを見にくる人、ケアする人、介護する人は、あなたが遣わされた相手です。
 
あなたとの触れ合い、あなたとのやりとりが、そのまま、その人への宣教に用いられます。パウロが、フェリクスや、ドルシラや、フェストゥスと話すとき、そのやりとりが、キリスト・イエスへの信仰の業に用いられたように、あなたがそこにいることも、宣教の業に用いられ、見えない教会が建てられています。
 
たとえ、どこにも行けなくても、どこかから出られなくなっていても、あなたが宣教の使命から、解放されることはありません。役に立たない者として、弟子の資格がない者として、切り捨てられることはありません。むしろ、あなたのいる所が、神様の遣わした場所として、新しく変えられていくんです。
 
今までのように、教会へ行けなくなって、奉仕ができなくなって、人と関われなくなって、自分の信仰が死んでいく、伝道の役に立てなくなっていくと、肩を落としている方はどうか前を見てください。あなたの信仰は死にません。伝道の道からも外れません。そこは紛れもなく、キリストと共に歩む道です。あなたはキリストの証人です。
 
目を上げて、立ち上がって、心を新しくされて、希望と喜びを受け取りなさい。あなたを頼り、あなたを支え、あなたと共に行く方に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。