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創造されていない者?【日曜礼拝】


《はじめに》

華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 創世記1:24〜31

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

今週、10月31日には、506回目の宗教改革記念日を迎えます。「宗教改革」と言えば、聖書に根拠のない贖宥状、いわゆる免罪符の他、聖職者の地位の売買、教会の私物化に対する批判など、様々な抗議で有名です。ウィクリフ、ヤン・フス、マルティン・ルターをはじめとして、多くの宗教改革者が、組織の見直しを訴え、改善に尽力してきました。
 
そんな中、かつてはラテン語でしか読まれなれかった聖書朗読が、各々の国の言葉で読まれるようになったり、聖歌隊に限られていた賛美歌が、会衆賛美としてみんなで歌われるようになったり、聖職者しか飲めなかった聖餐式のぶどう酒が、会衆にも配られるようになったり、様々な変化が起きていきました。
 
それまで支配的だった聖書の読み方や解釈にも、見直しと反省が迫られるようになりました。どれだけ寄進や献金をしたか、どれだけ奉仕や善行をしたかという「行いによって救われる」のではなく、ただ神様を信じる「信仰によって救われる」ことを確認し、贖宥状の購入や十字軍への参加を「救いの条件」とする根拠はないことが明らかにされました。
 
昨年以降、破壊的カルトによる、霊感商法や高額献金の被害が話題になっていますが、キリスト教会の中でも、16世紀には、それに近いことが起きていました。そのため、教会は指導内容を改め、献金と奉仕は「神の恵みに対する応答」であって「救いの条件」ではないこと、救われるためにいくら献げろ、という根拠はないことをはっきりさせました。
 
このように、自分たちの組織と集団を振り返り、共同体が抱える問題を追求し、改革のために、抗議する人々のことを、いつしか「プロテスタント」と呼ぶようになりました。文字通り「抗議する者」という意味ですが、私たちが自分のことをプロテスタントと言うときには、単に「あのとき抗議した」「かつて改革したグループ」を指すのではありません。
 
今も、自分たちの中で、間違ったことにはプロテストする、改革し続ける教会として、自らをプロテスタントと位置付けるのが、私たちに求められているあり方です。決して、「過去に間違ったことを改めたから、今の私たちは正しいんだ」と主張することが、プロテスタントではありません。
 
今も、自分たちの中にある問題を見つめ、改革していく勇気を持った共同体が、本当のプロテスタントです。そう言うからには、実際に今日、勇気を出して、私たちキリスト教会の問題の一つに、向き合う責任があるでしょう。本日、聖書日課で示された創世記1章1節から31節には、天地創造に関する記述が載っています。
 
長いので、聖書朗読では24節から31節のみにしましたが、この箇所はまさに、キリスト教会が長い間、ある人々を罪人として、自然ではない存在として、許されていないあり方として、断罪する根拠にしてきた聖書箇所です。メッセージのタイトルと1章27節を読めば、ピンとくるかもしれません。
 
「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された(聖書協会共同訳)」神様がどうやって人を造ったのか示した記述。これを抜き出して、攻撃されてしまったのが、同性愛者やトランスジェンダーの人たちでした。神は人を男と女に創造された。それ以外の性は造らなかった。だから、彼らの在り方は不自然だ、と。
 
確かに、新しく翻訳された聖書協会共同訳でも、はっきり「男と女に創造された」と書かれています。同性愛者やバイセクシュアル、トランスジェンダーの存在を造ったとは書かれていません。しかし、それを理由に、自然ではない、正しくない在り方として、LGBTの人たちを否定するのは、それこそ、正しくないんです。
 
なぜなら、「聖書に書いてないから」という理由で、その在り方が否定されるなら、今、自然に受けとめられている存在も、否定されなければならないからです。たとえば、創世記1章20節には、こう書いてあります。「鳥は地の上、天の大空を飛べ(聖書協会共同訳)」しかし、現実には、全ての鳥が、これに従っているわけではありません。
 
南極にいるペンギンは、地の上ではなく氷の上で生活し、天の大空ではなく海の中を泳いでいます。しかし、ペンギンを指して「神の命令に背く不自然な生き物だ」と、そのあり方を否定しようとする人はいないでしょう。聖書に書いてないから、という理由で、そのあり方を否定するのは、一見正しいようで、実は自分の主観に振り回されているんです。
 
でも、他の箇所で、同性愛の行為ははっきり禁じられている!……そう言って、なお、LGBTのあり方を否定したくなるかもしれません。確かに、レビ記18章22節には、男性に対し、「女と寝るように男と寝てはならない。それは忌むべきことである(聖書協会共同訳)」と書いてあります。
 
新約聖書でも、コリントの信徒への手紙一6章9節で「男娼となるもの」「男色するもの」は「神の国を受け継ぐことはありません」と厳しく否定されています。これを、現在知られている「同性愛」の否定と受け取るべきか、議論はありますが、いずれにしても、これらの教えを根拠にして、安易に、誰かを断罪することは避けなければなりません。
 
なぜなら、「聖書に書いてあるから」という理由で、その在り方を否定すれば、他に守られなければならないと思う存在も、守れなくなるからです。たとえば、申命記22章24節には、婚約者のいる女性が、町の中で襲われた場合、襲った男性と共に、被害者の女性も、死刑にしなければならないと書かれています。
 
その理由は、「町の中で娘が助けを求めて叫ばなかったから」……とされています。しかし、実際には、恐怖で声が出なかったり、「叫べば殺す」と脅されたりして、物理的には助けを呼べても、声を上げられない人も多いでしょう。おそらく、ほとんどの人は、聖書の言葉どおり、助けを呼べずに襲われた女性を「死刑にすべき」とは思わないでしょう。
 
しかし、「聖書に書いてあるから」同性愛者を断罪するのが正しいなら、町の中で、襲われた女性を断罪することも、正しくなってしまうんです。このように、聖書に書いてあるから、という理由で、そのあり方を否定するのは、一見正しいようで、実は大きな危険を伴っています。
 
私たちは、「聖書のみ」という宗教改革の原理に従って歩もうとしますが、実際のところ完全に聖書のみを根拠にして行動することはできません。聖書を理由にしていても、必ず自分自身の主観や偏見、嫌悪感が介入してきます。「そんなことはない」「自分は聖書だけを根拠にして主張している」という人間は、その高慢さに気づけていません。
 
聖書を根拠に、ある行動を正当化すること、自分の正しさを主張することは、イエス様を誘惑した悪魔だってやっていたことです。また、かつてドイツでは、キリストが十字架につけられたことについて、「その血の責任は、我々と子孫にある」とユダヤ人が答えたことを理由に、多くのユダヤ人が迫害され、殺されました……聖書に書いてあるから……
 
21世紀を迎えた現在も、同様のことを繰り返していないでしょうか? 律法に書いてあるからという理由で、病人を汚れた者として扱い、排除した共同体。かつて神様が命じたからという理由で、異邦人を蔑み、拒絶した共同体。それに対し、罪人として蔑まれた人たちと、共に食卓を囲み、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されたイエス様。
 
今、私たちが「創造されていない者」として、ある人たちを否定するとき、どちらに、ならっているでしょう? どちらに陥っているでしょう? イエス様は、故郷でも、会堂でも、神殿でも……身内にも、同胞にも、敵対者にも……新しい生き方をもたらすために繰り返しプロテストしてきました。私たちに、自らを顧みる力を与え続けてきました。
 
新しく創造されることは、今までの私たちの否定ではありません。神様は、造ったすべてのものをご覧になったとき、「それは極めて良かった」と言われました。今までも、これからも、あなたがここにいることは、神様が望む、良いことなんです。あなたを造られた神の祝福が、あなたと、あなたの隣にいる者を、照らし続けてくださるように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。