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悪魔と同じ裁きを受ける?【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙一3:1〜7

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 現代のキリスト教会で「監督」という言葉を使うと、教会における指導者の役職や職制がイメージされるでしょう。「監督」は戦前に日本の聖公会やメソジスト教会で用いられた役職名で、カトリックでいう「司教(ビショップ)」に当たる言葉です。ようするに、地区や教区で、複数の教会を監督する、指導する立場の人間です。

 戦後、聖公会では「監督」ではなく「主教」と呼ばれるようになり、メソジスト教会では「監督」と呼ばれる役職自体がなくなっていきました。私たちの感覚でいうと、複数の教会の信徒や教師で構成される「教区総会」とその議長が、監督の役割を担っていると言えるかもしれません。

 だから、テモテへの手紙に出てくる「監督の職」という言葉も、単なる牧師や司祭より責任の重い、司教や主教のような役職を指していると思われるかもしれません。しかし、ここに出てくる「監督の職」は、キリスト教における役職の意味に限定されず、他の職場やグループの指導者を含んだ、一般的な意味で用いられていると考えられます。

 実際、括弧で引用されている「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」という言葉は、キリスト教独自のものというより、人々の間で知られていた一種の格言だろうと言われています。実は、旧約聖書からの引用ではありません。「良い仕事」という言葉も「良い役職」というよりは「良い行い」くらいのニュアンスです。

 つまり、この言葉は「指導者を目指すということは、単に良いステータスを得ようと求めても達成されず、おのずから身を慎んで、良い行いをするよう求めざるを得ない結果になる」ということを語っており、指導者の地位を獲得することが、そんなに都合の良い話ではないことを教えています。

 実際、続く言葉を読んでいると、監督であるということが、いかに厳しく大変かということを思わされますよね?……「監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。」

 非のうちどころがないことを求められる立場って、そんなになりたいとは思いませんよね?……「一人の妻の夫であり」という言葉は、「一夫多妻制を禁じたもの」「身勝手な理由による離婚や再婚を禁じたもの」など、様々な説が立てられますが、ようするに、自分に都合よく複数の女性を囲もうとすることを戒めた言葉です。

 人の上に立っているから、指導者という地位だから、それらが許されるのではなく、むしろ、そういうことに指導者という立場を使ってはならないと、忠告している言葉です。また、これを読んで、「指導者になる資格を得るため、結婚しよう」と考えるのも間違いです。結婚相手は、自分が指導者になるための道具ではありません。

 実は、テモテへの手紙には「人の上に立つ指導者という地位を得たら、きっとこういうことができる」という憧れのイメージをことごとく覆すような言葉が並んでいます。たとえば、良い役職についている人は、贅沢ができるとか、気を遣わなくていいとか、色んな人にもてなしてもらえるとか、そういうイメージがあるかもしれません。

 しかし、手紙の著者は、指導者になる人は、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません」と続けます。先のイメージと真逆ですよね? さらに、「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず」とも出てきます。

 逆に言えば、偉くなって、溺れるほど酒を飲みたい人や、金銭を得たい人にとって、教会の指導者になるということは、それらが許されなくなる、という非常に都合の悪い話なんです。もしかしたら、テモテへの手紙が書かれた頃、教会で偉くなれば、ステータスを得れば、そういうことが許されると思っている人たちがいたのかもしれません。

 神に選ばれて王になった人間も、あんな贅沢やこんな我儘をしたじゃないか……と。けれども、テモテへの手紙は容赦なく、そういった過去の指導者に対しても手厳しい言葉を語っています。「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供達を従順な者に育てている人でなければなりません」と。

 これって、息子の非行や謀反を治められなかったダビデやソロモン、複数の妻と子どもたちとの関係で度々トラブルになったアブラハムやヤコブにも、刺さる言葉ですよね。「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」という台詞も、息子たちの権力争いで、神の民であるイスラエルを分裂させた王の歴史が思い起こされます。

 どうやら、聖書に書かれた神の言葉は、神が選んで召し出した指導者に対しても、都合の良い言葉だけを語ってくれるわけではないようです。現在、牧師や司祭として立てられている者、様々なグループの指導者として立てられているクリスチャンにも、その立場にあることで、過ちが不問にされるわけではないことをはっきり伝えているんです。

 そして、6節には、現代の多くの教会にとっても、耳の痛い言葉が語られています。「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです」……このように述べられているものの、教会に新しい人が来ると、思わず色んな期待をかけて、役職を背負わせてしまうこと、ありますよね?

 来たばかりなのに、役員になってくれる人がいないから、教会学校の教師になってくれる人がいないから……と、次々に役職を背負わせ、役職を担った人と会衆の間でトラブルになってしまった教会は、残念ながら、そんなに珍しくありません。それは、来たばかりの人に対する信頼の態度というよりも、無責任な態度でもあります。

 「悪魔と同じ裁きを受けかねない」ような働きかけを、信仰に入ったばかりの人にしてしまう……それは、私たちが最もやってはいけないことです。また、7節には「監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません」と出てきます。一方で、教会以外の人々からの声を、度々軽視する態度も目撃されます。

 信仰を持っていない人の評価、教会に来たことのない目線、それらを「世俗的」と一括りにし、教会や、教会指導者への批判をまともに見つめようとしない態度は、聖書においても、肯定してはいないんです。教会以外の人々からも、教会は、教会の指導者は、どう評価されているか?……私たちは、きちんと向き合えているでしょうか?

 牧師自身も、耳が痛くなるこれらの言葉……今週もしっかり噛み締めながら、もう一度教会のあり方、私たちの在り方について見つめ直し、新しく歩み出したいと思います。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。