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預言と迫害【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録11:27〜12:5

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「迫害と預言」

使徒言行録には、初代教会に起きた様々な事件や奇跡が綴られています。その中には、自分に降りかかったら困るショッキングな事件もあれば、本当に起きたらワクワクするような奇跡もあります。中でも、よく思い出されるのは、誰かの語った預言が本当になったり、信仰を貫いた人が殉教してしまったりするシーンです。

預言と迫害……この2つは、初めて教会に来た人や、初めて聖書を読む人には、怪しげに映ります。もちろん、長年教会に通っている人でも、何となくゾワゾワする気持ちになることがあるでしょう。なぜなら、預言が本当になったり、信じた人が迫害を受けたりする話は、破壊的カルトの中でも、よく強調されるからです。 

実際、カルト問題の支援者に寄せられる相談には、預言と称して、聖書にはない指示や命令を信徒に向かって強要したり、組織に対する家族からの批判を迫害として受け取るよう教え込むリーダーが度々出てきます。そういった、問題ある指導者に、よく取り上げられるのが、今日読んだような聖書箇所です。

「そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった」……サラッと「預言する人々」が出てきましたが、今でも、世界中で似たような行動をとる集団は大勢います。

「もうすぐどこどこで地震が起こる」「まもなく洪水によって大勢の人が死んでしまう」そういった恐怖や不安を煽る預言を語ることで、悲惨な未来を回避して助かりたい人たちを取り込み、信者にしてしまうグループが容易に頭へ浮かぶでしょう。ですが、実際に、初代教会にも、飢饉を予告した人たちはいたし、その預言が的中したことも書かれている。

もしかしたら、現在でも本当に預言する人がいるかもしれないし、初代教会と同じことをしているなら、安易に嘘だと決めつけるのも、やめさせるのも、よくないのではないだろうか?……けっこう悩ましいところですよね? ただ、今回出てきた預言の成就は、単なる信仰的なエピソードというより、むしろ教会の体制を変える話でもあるんです。 

先ほども、唐突に「預言する人々」が出てきたことを話しましたが、面白いことに、初代教会の預言者はほとんど名前が記されません。28節に出てきた名前はアガボ一人で、彼についてのエピソードはここだけと言っていいくらいです。彼がこの後、みんなを率いて新しい教会を建てたり、組織を動かしたりした様子もありません。

不思議ですよね? 考えてみたら、アンティオキアにはバルナバもいたし、パウロもいました。既に教会で多くの人を教え導き、弟子たちを率いている指導者がいました。にもかかわらず、彼ら指導者ではなく、名前の記されない、ほとんど記憶されない人たちが、世界中の大飢饉を預言します。

しかも、預言した人々は、その後、組織の指導者や監督になることもなく、預言だけして終わります。普通、預言を的中させたら、たくさんの人が進んで従いそうなものですが、初代教会では、預言した人を指導者に祭り上げたり、彼らの預言によって人集めをしたりする行動はほとんど見られません。

既に、各地の教会の指導者として人々を教えていた使徒たちも、その支配力を強化するような預言の賜物は、これ以降あまり出てきません。面白いことに、イエス様に選ばれた12使徒が「預言する」というシーンはそんなに出てきません。使徒に預言を語らせた方が、言うことを聞く人も、信じる人も増えることは確実なのに、そうはならないんです。

さらに、この箇所では、「アガボが預言したことによって教会が飢饉による被害を免れた」という話にはなっていませんでした。むしろ、ユダヤに住む兄弟たちにアンティオキアの信徒たちから援助を送ったことが強調されています。「預言によって、あらかじめ備えることができました」「信じた人たちは皆助かりました」という話ではないんです。

今まで宣教の対象にもならなかった人たちが、ユダヤの人たちを助けたこと、両者が本当の仲間になったことを強調している話なんです。考えてみてください。エルサレムにいた信仰者が、異邦人の住むアンティオキアへ身を寄せるって、けっこうショッキングなことです。しかも、律法を、神の言葉を蔑ろにする適当なユダヤ人じゃなくて、神の言葉を預かった、預言する人々が、できたばかりの異邦人の教会へ身を寄せたんです。

これまで「清くない」「汚れたもの」「宣教の対象にもならなかったもの」を信じて、頼って、仲間として、ユダヤにいる兄弟たちに援助を送った……「預言が当たりました!」という単純な話ではなく、受け入れなかったものを受け入れ合い、助け合う関係になっていく大転換が、この出来事の中心なんです。

さらに、12章には使徒ヤコブの殉教が記されています。気づいたでしょうか? イエス様に選ばれた12人の中で、教会の指導者として遣わされていた使徒たちの中で、最初に殉教した人であるにもかかわらず、その様子はたった三行しか記さていなかったことに。使徒でない、食事の世話をする者に過ぎなかったステファノのときは、彼が殺されるまでに語ったこと、訴えたこと、どうして息絶えたかまで細かく記されていたのに。

通常、信仰者の殉教は、とてもドラマティックに書かれます。教会の中心的なメンバーであれば、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネは特に有名な3人でしたから、その死は多くの人に語り継がれる内容だったに違いありません。ところが、最初に殺された使徒ヤコブは、たった三行です。剣で殺されたというたった三行。 

死を前にした語った最後のメッセージも、信仰を捨てさせよとする誰かと闘った様子も記されません。最初の使徒の殉教は、美しく語られることも、英雄の最後のように飾られることもありません。むしろ、ヤコブの死によって絶望し、歩みを止めるはずの教会が、なお神様に助けられ、支えられ、みんなで祈り続けた様子が強調されています。

預言も、迫害も、信じる人をコントロールするのによく使われます。しかし、初代教会は単なる人集めのために、信者のコントロールのために、殊更に預言を強調したり、迫害を美化したりすることを安易に支持しませんでした。そんなことしなくても、ちゃんと信仰共同体は守られて、伝道していくことができました。必要な変化をもたらされ、新しく立ち続けることができました。

 私たちも問われています。飛びつきたい言葉、飛びつきたい出来事、色々ある中で、信仰者であるとは、信仰生活を支え合うとはどういうことか、問われ続けています。誠実で健全な信仰を保ち、築き、重ねていくために、聖霊の導きを求めて、祈りを合わせていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。