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パウロ、お前もか?【聖書研究】

《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》使徒言行録16:1〜5

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るよう命じるべきだ」……ユダヤ人の信徒から、異邦人の信徒に対し、そのような指導がなされた時代、パウロは真っ向から反対し、ユダヤ人と異邦人の間に、何の差別もあってはならないと訴えてきました。
 
割礼とは、男性の包皮の一部を切り取る儀式で、ユダヤ人なら生まれて間もなく親から施されますが、成人してから信仰を持った異邦人には、たいへん困難なことでした。誰かに手伝ってもらうわけにいかず、何日も痛みに耐えて、傷が癒えるまで仕事もできず、妻や子供も養えない……事実上、ほとんどの異邦人には実行できないことでした。
 
そこで、パウロはバルナバと一緒にエルサレムまで上っていって、使徒会議に出席し、割礼を受けない異邦人も、同じ信仰者として認められる、教会の一員に迎えられることを確認し、その決定を各地の教会へ持ち帰り、伝えていきました。異邦人に対する差別や偏見に囚われていた教会が、大きく変わっていく瞬間でした。
 
ところが、使徒会議の決定を受けてからも、エルサレムの教会から来た信徒の間で、「割礼を受けてない異邦人は認めない」という風潮が、すぐには消えませんでした。おそらく、ユダヤ人の信徒だけでなく、既に割礼を受けていた異邦人の信徒も、その風潮から抜け出しにくかったのだと思います。
 
私は困難な状況でも、信仰者として認められるため、割礼を受けて頑張ったのに、割礼なしでもかまわないとはどういうことか? 同じ異邦人でも、割礼を受けた異邦人と、受けていない異邦人では、信仰に大きく差があるのではないか? せめて、教師や指導的立場になる異邦人は、割礼を受けている者が選ばれるべきではないか?
 
現在のキリスト教界で、LGBTの人が信徒になることを認めるか、牧師や司祭になることを認めるか、今なお、立場が割れているのと似ています。かつては罪だと言われていた、汚れていると見做されていた、人々の在り方、有様を、簡単に人は認められません。聖霊によって導かれ、変化が始まった教会でも、その葛藤は、やはり経験していました。
 
そんな中、パウロは今まで一緒に異邦人伝道を担ってきた仲間たちも、衝突を恐れて、態度を変える場面があったことに、厳しい批判を残しています。使徒言行録15章の最後の方では、バルナバと意見が激しく衝突し、別行動を取るようになったことが書かれていますが、その理由について、ガラテヤの信徒への手紙2章では、こう記しています。
 
「ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした……」「ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」
 
ようするに、割礼を受けてない異邦人も、差別しないで一緒にやっていこうと決めたのに、身内と衝突するのを恐れ、後戻りしてしまったことを嘆いているわけです。人種、民族、性別等を理由にした差別反対の声明を出しても、いざ、当事者が教会へ来ると、本人の性自認や性的指向を隠すよう求め、こちらは何も変わろうとしない態度と重なります。
 
聖書に残された様々な手紙から、パウロの怒りや嘆きが伝わってきます。一見すると、彼はどこまでも異邦人に寄り添って、異邦人のために闘って、誠実な態度を貫いたように感じます。けれども、今日はそんな彼に対して「パウロ、お前もか?」と言いたくなるようなシーンが出てきます。
 
それは、彼がリストラという町へ伝道に行った際、テモテという弟子を一緒に連れていくため、やってしまった行為です。「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシャ人であることを、皆が知っていたからである」(使徒言行録16:3)
 
あれだけ、異邦人に割礼を受けさせることへ反対していたパウロ自身が、異邦人の子に割礼を授けてしまいます。しかも、「その地方に住むユダヤ人の手前」という理由で、です。ペトロやバルナバが、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、異邦人と一緒に食事をしなくなった態度を卑怯なんて言えません。それ以上のことをやらかしています。
 
なにせ、彼は、自ら訴えて、使徒会議で決定したこと、異邦人に割礼の重荷を負わせないことを貫かず、身内からどう見られるかを優先したわけですから……皮肉なことに、パウロは「その地方に住むユダヤ人の手前」テモテに割礼を授けますが、以降、アジア州では御言葉を語ることが聖霊から禁じられます。
 
その地方に住む人たちへ、イエス様の教えと業を全く語れなくなるんです。伝道のために、教会のためにと思って、異邦人の子に、割礼という重荷を負わせたにもかかわらず、パウロはその目的を果たせなくなります。目的が正しくても、手段が誤った状態で、良い知らせを、福音を届けることを、神様は望まないんです。
 
彼らはその後も、フリギア・ガラテヤ地方を通り、ミシア州の近くまで行き、ビティニア州へ入ろうとしますが、それもキリストの霊に許されませんでした。ようやく、福音を語れるようになるのは、夢の中で助けを求めるマケドニア人を知り、彼らのもとへ行こうとパウロが決心するときです。
 
以降、パウロがユダヤ人の目を気にして、割礼を授けることはなくなります。ひたすら異邦人に、世界中に、イエス様の教えと業を伝えながら、神の民として一緒に歩むことを目指していきます。パウロも、バルナバも、ペトロも、教会も、そうやって、神様が共に歩んで変えられていったように、私たちも過ちと向き合わされ、変えられていきます。
 
教会は、常に正しく居られるところではありません。むしろ、聖書には、たくさん間違えてきた教会の姿、弟子たちの姿、信徒の姿が描かれています。同時に、間違えても、失敗しても、挫折しても、私たちから離れずに、付き合い続けてくれる神の霊が、今日に至るまで、人々を新しく変えてきたことを証ししています。
 
私たちも、気づきと勇気をもたらされ、変化と回復をもたらされ、一緒になれなかった人たちと、共に歩んでいく者へ、少しずつ変えられていきましょう。変わる期待が持てない者も、変えられることを恐れる者も、信じて受け入れる者へ、新しく遣わされる者へ、神様は導いてくださいます。今、あなたに喜びと平和が訪れますように。アーメン。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。