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どう見ても男女差別【聖書研究】


《はじめに》

華陽教会の聖書研究祈祷会のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》テモテへの手紙一2:8〜3:1

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》

 もし、テモテへの手紙に書いてあることを、SNSで誰かがそのまま発信したら、一発で炎上してしまう……そんな記述が出てきました。手紙の著者は、明らかに男女差別と思われる言葉を残しています。特に、「女は子を産むことによって救われる」という表現は、どう考えても問題があると言えるでしょう。

 教会の聖書研究祈祷会で、こんな言葉が読まれるなんて……とショックを受ける人たちもいるかもしれません。ただ、教会だからこそ、聖書と言えども、時代的な制約の中で書かれた記述を、そのまま放置して、スルーするわけにはいきません。皆さんの子どもが、友人が、「これって男女差別だよね?」と聞いてきたとき、どう答えたらいいでしょう?

 まあ、男女差別であるのは間違いありません。頷くしかありません。聖書に書いてあることは正しいと言うために、「これは男女差別ではない」と言うことも、「差別ではなく、区別だ」と言うことも間違っています。区別の中に差別があって、誰かの人権を侵害する不合理な区別を差別と言います。

 ここに出てくる指示や表現は、女性の行動を不合理に制限し、女性の人格を不当に貶めており、合理的な区別ではありません。聖書には、差別的な表現が出てきます。それは、神の霊感を受けた人間が、ロボットのようにコントロールされて、聖書の言葉を書いたわけではないからです。

 神様が用いた人たちは、自我や自意識をなくされて、神の言うことをそのまま伝える機械のようになったわけではありません。神の言葉を一言一句、正しく伝えられるように、元の人格を失って、全て操作されたわけでもありません。むしろ、限界のある、問題のある、弱さのある人間に、神様は根気よく付き合って、用い続けてきたんです。

 聖書に差別的な指示や表現が出てくるのは、その時代に支配的だった価値観や、書き手の偏見が反映されてしまうからです。神様は、自分が用いる人の思考を無理やり変えて、自分の思いどおりに、書いたり、語ったり、行動するようコントロールしたのではなく、人間的な価値観や偏見から抜け出せなくても、その人から離れず、用い続けてきたんです。

 だから、聖書の中には、時代的な制約を受けた差別的表現も、その時代に支配的だった価値観を超える記述も出てきます。テモテへの手紙も、一部分だけを抜き取って、それを正しいものとして、無批判に現代の生活へ適用すべきではありません。むしろ、各々問題を抱えた聖書の記者が、互いに補い合うよう、用いられていることに注目すべきです。

 たとえば、テモテへの手紙には「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」と出てきますが、旧約聖書には、民全体を教える預言者として、男性のバラクを引っ張る士師として、女性のデボラが神によって立てられたことが記されています。

 神様は、女性が男性に教えたり、指導的立場に立つことを許さない方ではありません。それを許さないのは、人間的な価値観です。テモテへの手紙を根拠に、女性が役員になることや、女性が牧師になることを否定的に捉えてしまうのは、神様が女性を士師として、預言者として、教師として立ててきた事実に目を伏せる、偏った解釈でもあるんです。

 また、手紙の著者は、女性が静かに従順でいるべき理由を「男アダムが先に造られ、女エバは後から造られた存在だから」と言っていますが、どちらが先に造られたかで、優劣が決まるわけではありません。また、「アダムはだまされなかったが、エバはだまされて罪を犯してしまったから」とも言われますが、アダムの責任が軽かったわけでもありません。

 創世記3章で、神様に「取って食べるな」と言われていた木の実を食べるよう、蛇がエバを唆したとき、アダムは彼女の横に居たのに止めもせず、じっと見ているだけでした。エバは、蛇に向かって「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と神様に言われたことを話して、約束を守ろうとしますが、アダムは黙って見ています。

 むしろ、エバが木の実を取って食べてから、死ななかったのを確認して、自分も木の実を取って、食べるようにしています。もしかしたら、木の実に触れたら死んでしまうかもしれないのに、自分のパートナーが、蛇に唆されて手を伸ばすのを、一切止めずに見ていたんです。だまされるよりタチが悪いかもしれません。

 加えて、アダムとエバの行動は、全ての男女の傾向を表したものでもありません。アダムのように行動する女性もいれば、エバのように行動する男性もいます。創世記3章の記述は、男女の性質や役割を固定するために書かれたものではありません。そのように見たくなるのは、人間的な価値観です。

 また、テモテへの手紙には、「男は怒らず争わず……」「婦人はつつましい身なりをし……」というふうに、男女それぞれに「あるべき姿」や「担うべき役割」を固定しようとする傾向が色んなところに見られます。特に、女性には注文が多く、祈りの心構えよりも、外見や服装に注意しているところが目立ちます。

 確かに、教会で服装の注意をされるとしたら、現代でも圧倒的に、男性より女性に対して「肌の露出を控えるように」「派手な服装にならないように」という呼びかけが聞こえてくるでしょう。そこには、本来、自分の欲望を抑えるという男性が負うべき責任を、「男性に欲望を抱かせるな」と女性の責任に転じている、男性中心的な見方が隠れています。

 それを象徴するかのように「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」という言葉が出てきます。これは、かつてのイスラエルや、エフェソの社会に限りませんが、子どもが生まれないとき、その責任を問われるのは、男性ではなく女性でした。

 本来、その原因はどちらにあるのか分からないのに、たいてい、女性の方に問題があるとみなされて、離縁を突きつけられることもありました。そんな中、離縁状を渡して一方的に別れようとする男たちへ、神の子イエス・キリストは、鋭い批判を突きつけたことが福音書の中に出てきます。

 子を産めなかった女性たち、子を失った女性たちの悲痛な叫びや痛みに寄り添い、救いの訪れを語ったことが、他の箇所でも語られています。テモテへの手紙に出てくる様々な指示や表現は、私たちにつまずきと戸惑いを与えつつ、聖書全体を通して、他の箇所ではどのように語られ、どのように教えられているか、注意を向けさせます。

 それは、様々な問題や限界を持った私たちが、遣わされた者同士、用いられている者同士、互いに補い合って、変化と回復の道を歩まされている証でもあります。今日も、神様へ尋ね求めることを放棄せず、神様に疑問をぶつけながら、互いに愛し合う道を模索し続け、一緒に、新しくされていきましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。