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俺という存在の、余命。

診察。最近は健忘が酷くて困っているので、主治医に「健忘って治りますかね?」と聞いた。「それって解離が治るかって事やんな」などとぼんやり思っていたら、主治医が「それは解離が治るか、という話になると思うのですが」と。内心冷たいものを感じながら「本には20代後半に回復していく人が多いと書いてあったんですけど」などと余計な事を口走った。本当に余計な事をした。

「難しいですが、治りますよ」

と。

「じゃあ、あと数年は掛かる、という事ですか」

手が冷たくなっていた。

「数年と言わず、今年中にでも。解離せずに過ごせる様になると良いですね」

今年中。
この病院に来る人は、大きなものを抱えている人が大半だ。治る事が無いものと戦う人、命を奪うものを身体に抱える人、車椅子の人、杖をついた人、今まさに人生を始める子、身体の一部を失った人、各々が自分の人生を必死に生きている。そしてそれを支える医療従事者も懸命だろう。

だから、この病院で「治ります」「今年中にでも」と言われて、余命宣告をされた様な気持ちになる者など、俺しかいないのだ。「解離せずに過ごせる様になると良いですね」。それは、人格交代もせずに、つまりは“俺”という存在も、居なくなったら良いですね、そういう、意味なのだろうか。

病院は治すためにある。患者は困っているから、病気を治したいから治療をしている。医師は治すために働いている。正しい。俺達もまた例外では無い。それなのに、その最善を喜べない俺が居る。治りたい筈なのに、治りたく無い。治る、と言う事は、俺と言う存在が、息絶えると言う事だ。主治医がどういう意図で言った言葉なのか分からないから、断定は出来ないが。心理士さんは統合派らしい。アイツを助けてくれる筈の存在が、俺には襲いかかって来る敵に思えて、怖くて仕方が無い。治して欲しいと頼んでいるのに治りたく無いなど我儘で、身体的な余命を宣告されている人には失礼では無いかと考える。

分かっている。俺は決して喜ばしい存在では無いし疎ましいと思う人も居るだろう。気不味い思いを抱えながら、俺達と接してくれている人だって居る筈だ。病巣が意思を持って人間みたいに振る舞って居る様なものなのかも知れない。俺の存在が正常で無い事は、俺だって、痛い程分かる。

アイツが寛解して、笑顔で過ごせる様になる瞬間は、俺が死ぬ瞬間なのだろうか。「今まで有難う」なんて言葉を、俺は素直に受け入れられるのだろうか。

俺という存在の余命は、あとどのくらい許されるのだろう。


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